東京で陽性者が急速に減った理由としてこの説明は納得しやすい(図右の赤線) ”ワクチンを受けていない人の深夜の繁華街などへの外出が急激に減り、1回目の緊急事態宣言の時の最低水準と同じ程度になり、その状態が5週間以上続いているとの… https://t.co/lMoNkd00fd
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稲永遊郭の歴史名古屋には、明治前にもいくつか遊里があったのですが、その一つに熱田遊郭がありました。名前のとおり、熱田神宮近くにあった遊里です。 こちらは文明開化以前からあった古い色街でしたが、明治時代に入り移転の話が持ち上がりました。 明治42年3月、愛知県は という布告を発します。街の真ん中、それも熱田神宮という聖域の横に遊里があるなんてけしからんというのがその建前です。江戸時代まではおおっぴらに営業できたのに、明治政府になってからダメになったのは、神道を穢れのない「国家神道」として神聖視化した政治的な処理の一端かと思ったりします。 そのまますんなり移転すれば良かったのですが、人間欲というものが絡むとどす黒い疑獄に発展します。 稲永の大地主である第十六銀行頭取渡辺某は、この移転をきっかけに一儲けを企みます。当時の愛知県知事や名古屋市長に、遊郭の移転が決まれば計画地や周囲の土地を格安で売り
▽私は風俗が好きである。こう書き出すと、日常的な風習を追いかけている学者のようで賢い気もするし、いかがわしいお店に足繁く通う男のようでもある。それは対局にあるようで、いかがわしいサービスも日常に寄り添うものであるし、大昔から存在する文化でもあるので、そうかけ離れているものでもない。私のいう風俗というのは、いかがわしいお店のある町を見て歩くのが好きという意味だ。気に入った店に入るわけでもなく、ただただ見て、好きあらば写真を撮る。昔はよく泊りがけで地方都市に出向いて、夢遊病者のように寂れた町をさまよい歩いていた。私が赴く場所で賑やかな風俗街というのはあまりなく、どこか物悲しい雰囲気が漂っている。東京や大阪などの大都市にあるそれならさぞ賑やかなのだろうけど、そういったものにはあまり興味をそそられない。 かつて足繁く通っていた沖縄も栄枯盛衰が激しく、すっかり寂れてしまった町が多く、それがどこか愛お
令和になって、二十代の人たちの中には平成レトロなんていうブームがあると聞きますが、遊郭跡を散策するのも女性の間ではまだまだ流行っているそうですね。 あと、定年後の人たちがまち歩きを始めていて、実際にスマホを片手に古い街並みを散策している姿をよく見かけるようになりました。 本書は、東京の昭和レトロな建物や赤線の痕跡を探すときに持って行きたい1冊です。 本書をオススメしたい人 遊郭赤線巡り本の中で本書の特徴 蛇足の名古屋話 まとめ 花街の引力 東京の三業地、赤線跡を歩く 著者:三浦展 発行所:株式会社清談社Publico 初版発行:2021年5月13日 本書をオススメしたい人 まち歩きが趣味の人 遊郭跡散策が趣味の人 東京の街の成り立ちの裏側に興味がある人 レトロ建築が好きな人 遊郭赤線巡り本の中で本書の特徴 本書は、東京都内でその昔、と言っても昭和初期まで含むのですが、三業地に認定されていた
戦後の混乱がやっと落ち着きつつあった昭和20年後半、東京には15~6ヶ所の赤線が存在していたといいます。青線や街娼のたまり場などを入れると「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたように、掃いて捨てるほど存在していたのでしょう。 今日の赤線は、そんな東京の赤線の一つ、東京都の葛飾区、立石の紹介を。 立石にあった赤線地帯私の事前調査と実地調査によると、立石の旧赤線のはだいたいこの区域です。 立石駅の北口の北部、商店街の道筋にある「立石駅前交番」の裏近辺が赤線地域と昔の資料にありますが、『全国女性街ガイド』は立石をこう表現しています。 「あそこは公衆便所だよ」 と痛撃する男がいるかと思えば、 「俺、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ…てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。けっ、たまらねえや」 という男もいる。早
「坊っちゃん」の降り立った地-三津浜三津浜(みつはま)は、愛媛県松山市街の北西にある港町です。 古くから伊予水軍の本拠地であり、江戸時代から明治後期にかけて全国から船が寄港し、ヒト・モノが行き交った四国の盛り場の一つでした。 その後は北部に建設された高浜港に「松山港」としての地位を譲りますが、現在でも漁港・近海旅客船の拠点、そして松山市内のベッドタウンとなっています。大阪に例えたら堺のようなところかなと。 かつての三津浜が隆盛ぶりを示す、間接的な証拠があります。 大正時代の「三津浜Walker」こと『みつが浜』(大正12年刊)に掲載された銀行の広告です。 銀行から融資してもらうためには担保が必要ですが、昔の担保は不動産だけではなく、米や海産物など現物も多々有りました。その現物を保管する倉庫、担保用の金庫が銀行は必要で、それだけ三津浜にヒト・モノが集まっていたということ。 これらの銀行も何度
敗戦後の東京、占領軍として日本に君臨したGHQは、良くも悪くも日本に数々の改革を実施しました。大地主制度や財閥など、解体・廃止したものも多かったのですが、その中の一つに「公娼の廃止」がありました。公娼って何ぞや?と説明するのも面倒臭いので、ここでは「遊郭」と理解していただいて結構です。 そう説明すると、遊里史をかじった人はこう疑問符がつくはず。 そう、戦後には「赤線」があったはずだと。 しかし、厳密に言うと赤線は遊郭の延長ではあるけれども、公娼ではありません。赤線は警察などの公的機関は「黙認」していたけれども、認めていたわけではない。対して遊郭は「公認」。だから”公”娼なのです。黙認と公認は、天と地の開きがあります。 研究者によっては、 と主張する人もいますが、私個人としての考えは、赤線は「私娼窟」としています。 昭和20年代〜30年代前半の東京には、赤線だけでも10ヶ所以上が存在し、夜な
宇都宮と聞いてまず思いつくのが。 …おっと間違えた。 やっぱ餃子でしょ。 宇都宮がいつから「餃子の街」になったかは不明ですが、駅を降りるとそこは餃子屋だったほどの餃子ラッシュは、餃子で町おこしをして成功した矜持を感じさせます。こんな街、餃子の本場中国にもないぞ。 宇都宮は、日光街道と奥州街道の要衝、そして日光東照宮のお膝元として江戸時代以降重要視され、それだけに徳川家康の腹心本多正信の息子、正純が城主として治めることになりました。歴史、特に江戸時代が好きな人は、宇都宮とくれば餃子ではなく「釣天井事件」を想起する人もいるでしょう。 これにより本多正純は改易となり、その後は譜代大名の持ち回りで治める町になりましたが、彼が築いたまちづくりが現在の宇都宮市の基礎になっています。 今回は、そんな自他共に認める餃子之国、宇都宮にあった遊郭のお話。 宇都宮の遊郭史近世宇都宮の歴史は、時間がなく調べること
裸になれば誰かに受け入れてもらえるはず 「子供の頃、周りから嫌われていてどこにも居場所がなかったんです。声が低くて気持ち悪いと言われてから、言葉を発することが怖くなってしまった。小学校に上がっても一言も言葉を発せず、給食もひと口も食べない。痩せ細って本当に気味の悪い子供だったと思います。勉強も全く理解できませんでした。読み書きができるようになったのは、30歳を過ぎてからです。 そんな感じでしたから、学校ではいじめられて不登校になりました。両親は自営業だったので、ほとんど家にいませんでした。ですから、家は荒れ放題でまるでゴミ屋敷。雨戸も閉めっぱなしで部屋は真っ暗。そんな中で私はずっと女の人の裸の絵を描き続けていました。なぜかというと、大人の男性たちがポルノ雑誌を読んで喜んでいる姿を見ていたからです。いつか大人になって裸になれば、こんな私でも誰かに受け入れてもらえるのかもしれない。そんな憧れが
点検はほぼ100%終わったと思われがちだ。しかし、実はまだ未点検の橋が市町村には存在する。「里道橋」だ。法定外公共物ではあるものの、中には生活道路として多くの人や車の通行に役立っている橋もある。いざ問題が起こった場合には、道路橋の管理部署に対応が求められる可能性が高い。点検の効率化についての悩みも尽きない。 2014年の改正道路法施行規則の施行に伴って義務化された、5年に1度の近接目視点検。適用範囲は、道路法で規定する道路における橋長2m以上の橋などだ。それ以外の橋には基本的に点検や診断の義務はない。しかし、中には多くの人が利用しており、自治体にとっても無視できない橋がある。 大阪府枚方市では17年に、道路法に規定されていない橋で損傷が発覚。応急的に仮設橋へ架け替える事態を招いた。 問題となった橋は橋長が約8m、有効幅員が4mだ。橋梁の構造は、横桁がない特殊な形式をしている(図1)。I形鋼
©文藝春秋 渡辺さんへのインタビューから、資料も少なく、厚いベールに包まれているこの赤線の実情がうっすらと見えてきた。(全2回の前編/後編を読む) 実際に赤線を経験した作家は何を書いていたか 〈「赤線本」に収められているのは、永井荷風や井伏鱒二、吉行淳之介といった文豪の作品だけではない。日本を代表する映画俳優の高倉健、多くのヒット曲を生み出した小林亜星といった戦後の芸能史を彩ってきた才人たちの、若かりし日の飾らない体験談も紹介されている。そして、赤線で体を張っていた女性たちの意外な本音も……〉 ――赤線跡の現在の街並みを収めた写真集などはよく見かけますが、アンソロジーというのは珍しい気がします。どんな狙いがあったのでしょう。 渡辺豪氏 ©文藝春秋 渡辺 ここ10年くらい遊廓や赤線跡の取材をしていてわかったのは「フィールドワークをするにはもう遅すぎる」ということです。当時を本当に知っている世
その貝塚の遊里跡のメインストリートの真ん中にそびえる、一軒の料亭がありました。 その名は「深川」。 敷地的にはかなり大きく、赤い外壁がいかにも「それっぽい」ムードを醸し出していますが、建てられたのは戦後であることは確定です。なぜなら「深川」がある界隈は昭和20年7月、B29がピンポイントで落とした焼夷弾が遊郭を直撃し、焼けてしまったから。詳しくは上のリンクを参照下さい。 実はこの「深川」、数年前に閉店してしまい、現在はその門を固く閉ざしております。 しまった!ここで一度でもいいから食べて中を見ておけばよかった! …ところが、実は一度行ったのです(笑 2009年になりますが、ここ「深川」を訪問し前々ブログでアップしていました。が、閉店したからといってそのまま無にするのももったいない。考えた結果、文章を変えつつ全体の雰囲気は変えずこちらに移転してみました。 なお、いかんせん11年前に書いたブロ
東西南北の人が集まり通っていた下関には、その数だけ人間ドラマがあると言っても過言ではありません。 遊郭に通う人たちも、何も現地の人だけとは限りません。下関を通過(トランジット)するだけながら、次の移動待ちの間にフラリと赤いランプに導かれて女の園に吸い込まれる…。そんな男達は星の数ほどいたはずです。 今回は、そんな男と女の色情を見て育った、ある男の生涯を追ってみます。 下関には、以前紹介した新地や稲荷町・裏町、豊前田の他にも遊郭が存在していました。 その名は今浦町。今でもそのまま地名が残っているのですが、本編の主人公は終戦直後の男と女の本性が渦巻く、丘の上にあるこの町で生まれました。 父親は長崎からやってきた妻子持ちの男、女は今浦町で質屋を営む戦争未亡人。普通に暮らしていればまず交わることがない二人は不倫の関係になって結ばれ、やがて女は男の子どもを身ごもり、出産します。 時は昭和24年(19
大河ドラマ『麒麟がゆく』が好調ですが、福知山の祖はその主人公の明智光秀。横山などと呼ばれていたこの地の豪族を平定した明智光秀は、「福智(知)山」と名付け城下町を造り上げました。 その3年後に本能寺の変となるのですが、光秀の治世は民にベクトルが向いたもので非常に感謝されたと言います。 明智光秀とは関係ないですが、今回は福知山の遊郭のお話。 福知山の遊郭 福知山の遊郭は、「猪崎」という市街地から離れた場所にあります。元は明治10年(1877)、猪崎とは由良川を挟んだ対岸あたりにある下柳町に、12軒ほどの貸座敷が出来たのが始まりとされています。 ここの貸座敷(遊廓)は福知山市を流れる由良川に沿って作られ、当時は堤防の上に作られたこともあり、「土手の町」または「土手町」と呼ばれていたそうです1。 明治29年(1896)8月30日、暴れ川で有名な由良川が豪雨で氾濫、福知山の歴史に残る大洪水になりまし
もう一本の「足」がどこかはお察しですが、この発言は一兵卒ではなく当時は超エリートの中佐の言です。 海軍には、軍艦寄港時には艦長自ら舵を握るルールがありました。操舵が上手い艦長だとさっさと接岸させて乗員を陸に揚げる。遊郭の女は早い者勝ち、早く上陸した者がいい女をGET。それも艦長の腕次第。それができない不器量な艦長の艦は… 不沈艦としてその名を残す駆逐艦『雪風』を不沈艦たらしめた名艦長、寺内正道中佐の言葉です。さっさと部下を上陸させていい女にありつかせるのは、軍艦のモチベーション保持のために重要だったのです。 そんな海の男の特殊な(?)事情もあり、さすがの仙台藩も特例として石巻に遊郭設置を許可したのです。 江戸時代の石巻遊里は、石巻村、門脇村、湊村の3ヶ所にあったことは確かだそうですが、具体的な軒数・人数についてはよくわかっていません。ただ、かなり栄えていたとは伝えられています。 そして明治
かつて青森市にあった赤線の現体験を持つ画家が描いた、類例のない作品展。 青森市出身のクレヨン画家・孫内あつし氏(昭和15年〜)が描いた赤線『森紅園(しんこうえん)』作品群をカストリ書房内ギャラリーにて展示致します。 (『森紅園 客引き』) 今年81歳を迎える孫内氏は、RAB青森放送局退社後に進んだ美術の道で、52歳の時にクレヨン画材と出会って以来、クレヨン画の創作活動を続けている、クレヨン画の草分け的存在。 生まれ育った故郷・青森の景色を描き続ける中で「森紅園」作品群を発表。赤線・森紅園があった市内旭町に構える神社の神主の次男として生まれた孫内氏、赤線は子供時代の遊び場だったという。赤線を原体験に持つ希有な画家が手掛けた作品群。 https://youtu.be/rPx7pN38Q8I (J COMチャンネル『八王子人図鑑』〈2020年3月20日放送〉) 『森紅園』作品群から5点を展示、2
横浜というと「赤レンガ倉庫」や「ランドマークタワー」などを思い浮かべ、港街というイメージを抱く人が多いかもしれません。しかし、75年前の終戦のあと、10万人もの連合国軍が進駐し、占領期間が終わったあともアメリカ軍が残り続けた「基地の街」でもあり、売春が事実上公認された「赤線」と呼ばれた地域がありました。戦争の傷跡が長く残ったその街で、アメリカ軍兵士らの相手をして生きた女性たちを撮り続けた1人の写真家がいました。 “基地の街” 横浜に存在した赤線地帯 終戦から2週間ほどあと、連合軍最高司令官のマッカーサー元帥が向かった先は横浜。東京に移るまで、今の横浜税関で執務にあたり、アメリカ第8軍司令部は、その後もそこに残りました。
京都府舞鶴市は、市内に入ると潮の香りがする日本海沿いの港町。この町は、何面もの顔を持つ多面体な街でもあります。 舞鶴は大きくわけて「西舞鶴」「東舞鶴」「中舞鶴」に分かれていますが、いちばん有名な面は、明治時代から続く「軍港」という側面。舞鶴は海軍の街であります。「舞鶴」って聞いてこれを思い浮かべる人が多いと思います。 ここは海軍が目をつけて軍港として整備し、明治20(1887)年から14年かけ、明治34(1901)年に舞鶴鎮守府という海軍の一大本拠地が出来あがります。 「鎮守府」とは今や日常会話では使うことのない半死語ですが(艦これがなければ本当に死んでたでしょう)、簡単に説明すると海軍の本拠地のこと。軍艦や海軍の軍人は必ずどこかの鎮守府に属していました。 もう一つは、戦国時代から続く城下町という側面。 歌人武将として有名な細川藤孝(幽斎)が織田信長から領地をもらい、城下町として整備してか
山形の遊郭山形県山形市。ここにはかつて、「西の岐阜、東の山形」とその名を知られた遊里が存在していました。その場所は小姓町。 小姓町の歴史は古く、名のとおり、最上氏時代に小姓衆が配置されていたことが由来とされ、江戸時代初期の地図にも表記されている、400年の歴史を誇る町名です。山形にはほかにも、「旅籠町」や「鉄砲町」など歴史と地理の深い関係を思わせる地名が多く残っています。 18世紀後半の1767年(明和4)、当時の山形藩主であった秋元久朝ともが衰退する藩の活性化を図るために、実際は町中に点在した売春業者の集約化でしょう、藩士はOFF LIMITS(立入禁止)という条件で遊郭を設置することを認めました。まあ、それも形骸化して入り浸った藩士も多かったのは書くまでもありません。 そして時代は明治へ。遊郭は人身売買であると明治5年(1872)にいったん廃止となりますが、これもほんの建前で、「どうし
(出典:『大阪府統計書』) 数字だけの規模としては小さい方で、市内にあった同じ花街の南陽新地や曾根崎新地はもちろん、泉州の岸和田花街をも下回ります。 その中でも、昭和11年(1936)だけ、遊客数と売上がなぜか爆上がりしているのですが、理由はわかりません。 そんな池田花街ですが、戦争による贅沢や享楽が締め付けられ、ついに昭和18年(1943)には法律でおおっぴらに営業が不可能となりました。 それと入れ違いなのか、大阪府の資料には陰で売春行為を行う小料理屋があったと書かれています。それと花街の関係はわかりません。が、この売春行為を行う小料理屋が、今回の主役「池田新地」の母体と推定できます。 赤線の成立、そして廃廓へそして終戦直前から戦後にかけ、戦争で焼け出された大阪他の遊郭の業者が若干数池田に移ったようで、戦争中から存在した在来の小料理屋と共に「池田新地」を形成しました。 そしてそれがのちの
今回の主役である東京都大田区武蔵新田は、東急多摩川線が良い意味で都会のローカル線のようにのんびりした路線のせいもあってか、武蔵新田は東京都、それも23区内のはずなのに都会の喧騒から離れた下町です。下町だけに、庶民的で人間のにおいがムンムンと立ちこめ、人気(ひとけ)ゼロの大自然より人間臭い町中が好きな私はホッとする場所でもあります。 昭和20年代、そんな下町に赤線が存在していました。こんなとこに赤線があったのかと、この地域の現在を知っている人ほどいぶかしんでしまいそうですが、本当にあったのです。 武蔵新田の前身は、羽田空港近くにあった穴守の遊里でした。 その穴守も、ルーツをたどってみると深川にあった洲崎遊郭。洲崎は昭和18年(1943)、海軍の命令で妓楼が軍需工場の工員の寮に転用され解散、一部の業者が穴守に移転し新遊里を形成しました。が、そこも羽田飛行場の拡張で立ち退き命令を食らい、その代わ
水運と「おしん」の町、左沢今回の舞台は、山形市から北西の方向の位置にある左沢というところ。「ひだりざわ」とは読まず、「あてらざわ」と読む東北随一の難読地名です。難読地名など近所に掃いて捨てるほど転がっている大阪出身の私も、これは読めませんでした。素で「ひだりざわ」と読んでました。 なお、この奇妙な読み方の由来は、諸説あって明らかではありません。 左沢へは、山形から途中寒河江を通って至る左沢線が走っています。2両編成のディゼルカーが猫の額ほどの平野を走るのですが、寒河江駅を出ると急に車窓の左右が山っぽくなり、トンネルまで現れます。そのトンネルを抜けると車窓が急に開け、最上川沿いに並ぶ家々が見えてきます。左沢もすぐ近くです。 左沢の歴史を知らないと、 と疑問に思ってしまいがちです。事実、今は良くも悪くも静かな田舎町です。が、江戸時代は最上川の水運の中継地点として人・モノが集まり非常に栄えた町で
2023年4月29日(土)〜5月7日(日)のゴールデンウィーク期間中、カストリ書房併設ギャラリーで開催された、色街写真家・紅子さんの個展『色街探訪記 元吉原ソープ嬢が撮る「遊廓・赤線・吉原の女」』、連日盛況のまま幕を閉じました。来場した多くの観覧者様、そして紅子さんにお礼申し上げます。 会期中の7日間(月火定休)で入場者数は450人を超え、連日満員御礼でした。紅子さんの写真が持つ魅力はもちろんのこと、紅子さんのご活動やお人柄に集まった関心や共感の高さゆえと拝察します。また会場のキャパ不足ゆえ、たびたび順番待ちが発生してしまうも忍耐強くお待ち下さった観覧者様に改めてお礼申し上げます。 今回、紅子さんの個展をお手伝いする機会を頂戴できた喜びに加えて、弊店にとっての課題も浮き彫りになりました。今回は紅子さんの個展の振り返りを兼ねて、課題について考えてみます。 おしなべて言えば、弊店が展示者(作家
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