東寺百合文書WEBでは、人名や地名など、文書の検索に利用するデータの多くを「東寺文書検索システム」(東寺文書データベース作成委員会が文部省・日本学術振興会平成7-12年度科学研究費補助金[研究成果公開促進費]の交付を受けて作成・頒布、2001年)からいただいて使用しています。
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10年以上前に高校世界史の勉強していた人向け。用語の表記変化一つとってみても,実はこれだけ変わっている。内容が変化したものも一部収録した。 ・ハム語系→(古代)エジプト語系 =これについては理由をよく知らないのだが,聖書に則った言い方は古色蒼然としている,ということだろうか。セム語族とくくってアフロ=アジア語族という言い方も出てきた。そもそも,高校世界史において語族があまり重要視されなくなってきた。 ・日本語・朝鮮語:ウラル=アルタイ語族から追放 =1語族1言語の,孤立した言語に。 ・古バビロニア王国→バビロン第1王朝 =以前から併記されていたが,後者が有力に。 ・新バビロニア王国→カルデアが併記されるように。 =前出とあわせて。こちらもいつかカルデアが優先されるようになる可能性がある。 ・カッシート,ミタンニ:印欧語族から外れる,重要度低下 =どちらも近年の研究により,語族不明に。さらに
File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(本社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(本社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(本社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから
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先日、NHKスペシャル「黒い雨 〜活(い)かされなかった被爆者調査〜」で、これまで明らかにされてこなかった被爆者調査があることが報道され、かなりの話題になりました。 発端は、長崎県保険医協会が厚生労働大臣あてに『「オークリッジレポート原爆黒い雨データに関する速やかな分析と情報公開を求める」要請書』を提出したこと。 原爆によるフォールアウト、いわゆる「黒い雨」の影響に関しては、被害者の証言はあるものの、公式の資料は存在しないというのがこれまでの定説だったようです*1。 ところがとあるところから、ABCC(原爆傷害調査委員会)およびオークリッジ国立研究所の内部資料、通称『オークリッジ・レポート』が発見され、学術論文ではないものの、「黒い雨」被害に関する情報が存在することが明らかになりました。 リンク先PDFで英語原文を見ることができます。 http://www.survivalring.org
我々は直接に過去を知ることはできない。 人間の行動や思考が残したさまざまな痕跡を手がかりに、過去を再構成する以外にそれを知る術を持たない。 そのようにして再構成された過去を歴史といい、再編成の手がかりとした痕跡を史料という。 もとより人が残した痕跡は〈書かれたもの〉に限らないが、古文書、古記録をはじめとする文献史料は、長きにわたって史料のなかでとくに優越した地位を占めてきた。 以前は限られた人しか見ることができなかった文献史料が、一部ではあるが歴史資料集として編纂され、刊行物として活字化されることを経て、多くの人が見ることができるようになった。 加えて近年、そうした刊行物はインターネット上で誰でも検索/参照できるようになっている。 以下では、自宅で誰でも(基本的に)無料でアクセス可能な歴史史料を紹介する。 ここで紹介する歴史資料集は、大きく2つに分けることができる。 A.ひとつは各文書・記
長くなったのでエントリを分割。 1. はじめに 紋章って? 紋章の起源 2. 紋章のルール ルールあっての紋章です。単調でちょっとつまらないかもしれませんが、ルールを知ることが紋章を知ることです。 つまんねーって人は、とりあえず配色のルールだけでも読んでみて下さい。 3. 紋章に歴史あり イギリス国王であるエリザベス女王の紋章解説 連合王国(UK)の紋章を解説。紋章を紐解けば、その紋章を持つ家系が丸裸に! 4. 紋章の図柄 紋章に用いられる図柄について。ここでは、良く使われるライオン、百合、鷲を解説。 5. 架空の紋章考察 創作物にも紋章は用いられます。ここではコードギアスの帝国旗、ロマサガ2の帝国紋章、ロトの紋章を中心に考察します。 6. 現代に息づく紋章 エンブレム ここでは自動車メーカーやサッカーのクラブチームなどのエンブレムの由来を簡単にご紹介。 7. 終わりに変えて日本の紋章と家
と、ウィキペディア⇒済州島四・三事件 - Wikipedia 済州島四・三事件(チェジュド(さいしゅうとう)よんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。 ちなみに日本の独立は1951年。このあたり、どうも若い人と話していて、れれれ感があるけど、敗戦の45年から6年間日本ってなかったんですよ。 流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが
Internet History Sourcebooks Project Editor: Paul Halsall [2023] Welcome to The Internet History Sourcebooks Project, a collection of public domain and copy-permitted historical texts presented cleanly (without advertising or excessive layout) for educational use. Primary sources are available here mainly for use in high-school and university/college courses. From the outset the site took a very b
この虐殺事件の大元となったフツとツチの対立は、そもそも民族間紛争というよりも、先進国が植民地化を優位に進めるため、支配階級(ツチ)とその他(フツ)に分けてしまった事より生じた軋轢にある。民族を隔てたのは彼らの責任にあらず、しかし彼らは憎み合う歴史を導き出されてしまった。 あれから十年以上たち、平和になりつつあるルワンダの名前を、内戦というタイトルで新聞に見た。隣国コンゴは近年大規模な内戦を抱え、未だ国中戦火がくすぶっている。それは知っていた。コンゴ独自の問題だと思っていた。しかしどうやら違うのだ。 ルワンダ内戦勃発時、虐殺の対象とされたツチはコンゴに逃れた。その後体勢が逆転し、復讐を恐れたフツは大量にコンゴに逃れた。ルワンダが平和を取り戻していく中、今度は新たに、コンゴの中の彼らの一部が、争いを始めた。何も変わっていなかったのだ。何も。 内戦の歴史は多分、遡ればどの国にもある。しかし結果が
ペリー提督、すなわちアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレイス・ペリー(1794~1858)が、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて三浦半島・浦賀沖に蒸気船2隻と帆船2隻で現われたのは、今からちょうど150年前の嘉永6年(1853)の7月8日(旧暦6月3日)のことだった。ちなみに、ペリーは、その前年の1852年11月24日、アメリカ東海岸ノーフォークを出航。当初は12隻の艦隊で日本に圧力をかけるつもりだったらしい。しかし、船の手当てが間に合わず、結局は4隻でやってきたわけである。それでも、江戸市中を恐怖に陥れたのだから、黒船の威力は絶大だった。おそらく、この〈事件〉は、海の彼方の常世やニライカナイをあこがれる弧状列島住民の素朴な信仰を打ち破り、その裏返しとしての〈欧米〉への舶来信仰を根づかせる契機となったといえるだろう。 ところで、ペリーら一行は、浦賀
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