先日御恵投いただいた市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版)から、今日の日本の精神状況をよく示しているな、と思われた対話の一節を: 宇城 日本の社会保障の制度設計は基本的にドイツ型だったわけでしょう。それを壊してきた過程がこの20年くらいだったわけじゃないですか。これはつまり、ドイツ型からアメリカ型に移行しようとしているとまとめていいのだろうか。 宇野 これはだから、エスピン・アンデルセンなんかの議論と同じで、日本はどの類型に入るのかという大論争をやって、結局例外型になってしまう。いつも日本は微妙に違うということになってしまうんだよね。 宇城 それは結局、日本における中間集団の位置づけの問題ということになるのだろうか。 小田川 『文明としてのイエ社会』とか読むと、日本の場合、中心的な役割を果たしてきた中間集団というのは、企業だったわけですよね。 宇野 日本は全体的な
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