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戦争と沖縄に関するringonouenのブックマーク (3)

  • 「戦の愚かさ」継承に決意 「与那原平和の日」で遺族らが献花 - 琉球新報デジタル

    沖縄戦で犠牲になった町民に花を手向ける与那原町遺族会会長の知念勇吉さん(右)=21日、与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館 「与那原町民平和の日」の21日、沖縄県与那原町与那原にある町立軽便与那原駅舎展示資料館には町民や遺族らが訪れ、沖縄戦で3分の1が犠牲となった町民に哀悼の意を込めて、花を手向けた。 1945年5月21日、運玉森の東側が米軍に占領された。町は2011年に条例で5月21日を「与那原町民平和の日」と定め、毎年記念式典などを開催してきたが、今年は昨年に続き新型コロナウイルス感染防止のため中止となった。 21日午前には照屋勉町長ら関係者ら9人が集まり、献花式を開いた。式に訪れた町遺族会会長の知念勇吉さん(75)は「子どもたちに平和の尊さ、戦争の愚かさを教える義務がある」と強く語った。名護市辺野古の新基地建設を巡る島南部からの土砂採取問題についても語り、「南部の土を辺野古の海に埋め

    「戦の愚かさ」継承に決意 「与那原平和の日」で遺族らが献花 - 琉球新報デジタル
    ringonouen
    ringonouen 2021/05/26
    “1945年5月21日、運玉森の東側が米軍に占領された。町は2011年に条例で5月21日を「与那原町民平和の日」と定め”
  • 沖縄戦の「集団自決」とは何か? 1945年3月28日、渡嘉敷島で──。

    8月8日、沖縄県の翁長雄志知事が膵臓がんで死去。67歳だった。保守派だった翁長氏が辺野古新基地建設を推し進める政府と対立するようになるきっかけは、第一次安倍政権だった2007年、高校の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」の軍強制に関する記述が削除されたことだった。集団自決とは何か──。16歳のときに渡嘉敷島でこの惨劇を体験した金城重明さんの証言を紹介する。 * 金城重明さんは1929年生まれ、沖縄県渡嘉敷島渡嘉敷村字阿波連出身。現在89歳。金城さんは1935年より小学6年間を字阿波連の学校に通い、その後、字渡嘉敷の国民学校高等科(2年間)に徒歩40分かけて通った。海軍に入りたくて勉学に励んだ金城さんだったが、腎臓を患って軍人への進路を諦めた。 1944年9月、日陸軍の海上挺身戦隊と海上挺身基地大隊が慶良間諸島に配備された。海上挺進戦隊の任務は、艇首に炸薬を搭載した小型のベニヤ製モーターボート

    沖縄戦の「集団自決」とは何か? 1945年3月28日、渡嘉敷島で──。
  • <社説>「終戦」73年 沖縄の8・15を見つめる - 琉球新報デジタル

    73回目の終戦記念日を迎えた。今年も6月23日の慰霊の日、8月6、9日の広島・長崎の原爆の日に、不戦平和の誓いを新たにしてきた。きょう8月15日は沖縄にとってどのような意味があるのか、改めて考える。 紙が2005年8月15日に発行した「沖縄戦新聞」第13号は73年前のきょう、1945年8月15日前後の人々の姿を多角的に紹介している。 14日の日のポツダム宣言受諾を受けて、米軍は16カ所の収容所の住民代表124人を石川地区(現うるま市石川)に集め、米軍の諮問機関として沖縄諮詢(しじゅん)会を設立すると表明した。20日に15人の委員によって正式に発足し、半年間にわたって中央政府の準備に当たった。ここで戦後沖縄の住民自治が胎動し、米軍統治との対峙(たいじ)も始まった。 収容所では栄養失調やマラリアで命を落とした人が多かった。住民の大半が収容所に入れられる一方で、敗戦を知らずに南部のガマに隠れ

    <社説>「終戦」73年 沖縄の8・15を見つめる - 琉球新報デジタル
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