仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため[注 1]、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩主池田光政[注 2]、柳川藩主立花忠茂[注 3]、宮津藩主京極高国[注 4]と相談の上、老中首座の酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。 しかし綱宗の放蕩は止まず、ついに1660年(万治3年)7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(初め伊達綱基、後に伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。 なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる[注 5]。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士