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ブックマーク / yamsway.hatenadiary.org (12)

  • 情報技術とメディア - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    アイゼンステインの「印刷革命」は、いうまでもなく、重要な著作である。 その中で、著者は、「ルネサンス」と「宗教改革」を中心に、西欧の「近代化」の意味を問い、それに決定的な影響をあたえたのは「印刷」の発明だったことをあかしていく。 まず、ルネサンスに関して、アイゼンステインは、ルネサンスとそれ以前のカロリング・ルネサンスを始めとする文芸復興との違いについて、次のような設問をする。 イタリア・ルネサンスは、新しく重要なできごととして他とは切り離して考えるに値するある独特の特徴を持っていた。しかし同様のことはカロリンガ朝の復興にも十二世紀の復興にも言えるのである。ではなぜ、十五世紀の復興だけに特別な画期的役割があったとするのであろうか。 (「印刷革命」 126p ) アイゼンステインは、テクストの複製・保存の技術、「印刷」が、画期をなしたことを論証する。 印刷術が登場するまでには、当然のことなが

    情報技術とメディア - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2009/03/13
     アイゼンステイン『印刷革命』(asin:4622018993)について。
  • 遍歴する職人たち - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    実は10日あまり前から、ルネッサンス期の印刷職人を主人公にした、この魅力的な歴史小説「消えた印刷職人」を手に、なにを書こうかと思い悩んでいる。 高宮利行他著の「と人の歴史事典」を拾い読みしたり、エズデイルの「西洋の書物」を読み出したりしていた。 小説の筋立て自体は、興味深く、1545年から1595年までの、アベル・リブリという印刷職人の半生を描いている。 彼は、ジュネーブ・リヨン・バーゼル・ハイデルベルク・スダンの町を、遍歴する。 アベル・リブリは実在したようだが、乏しい十六世紀の史料を元に、ベルギーの歴史家ジャン=フロンソワ・ジルモンが(アナグラムの筆名を使って)、想像力をつくし小説にまとめたものだ。 ここで、筋を追ったりするつもりはない。 初期の印刷工房の零細さ、遍歴する職人たち、宗教戦争期の不安など、散文で知っていたものを、小説の形で追体験できるわけで、その世界に浸ればよい。 特に

    遍歴する職人たち - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2008/05/18
  • 円本と新聞宣伝 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    「出版と社会」は、大部の書である。触れられる「昭和出版史」のエピソードは、それぞれ興味深いにせよ、読み上げるのに相当な時間を要した。 まず、私は、著者が「序 出版のパラダイム」で述べている「出版現象の成層構造」などの所論に与しない。 書30Pに掲載された図によれば、最下層に「4 日常生活」があり、その上に「3 情報」、さらにその上に「2 知識」さらに上に「1 知恵」があるとされる。(円錐として図示されている・また文中の数字はローマ数字、以下同) 「知」をこの上昇過程と捉え、出版や編集者を、この上昇過程の啓蒙的な導き手のように考えているのがうかがえる。 「知識人と大衆」といった形での捉えかたが、高度に情報化した「資主義社会」(これを正確になんと呼ぶのかは知らないが)は、こうした考えを無化してきたことは、私には自明のことに思える。 その自覚の上で、現在の編集・出版という営みは、行われてい

    円本と新聞宣伝 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2008/05/18
  • 公共の場所での音読 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    永嶺重敏が『雑誌と読者の近代』で引用している、明治期の汽車の車内での音読に関する新聞・雑誌記事は、現在と異質の「読書空間」が日にあったことを教えてくれる。 「汽車の中に入れば、必ず二三の少年は、一二の雑誌を手にして、物識り貌に之を朗唱するを見るべく」(明治二五年の記事 以下同) 「今尚ほ田舎の汽車中にて新聞雑誌抔を独り高声に誦読するもの少なからず」(明治二八年) 「書を携ふるもの僅に一人、東大の紀章をつけたる一青年が内田魯庵氏の『社会百面相』を繙けるのみ。しかも、渠、文学的趣味を以てこの書を読むにあらざるが如く、書に対するやつねに朗々として音誦し、三四ページを読了したりと思はるるや忽ち横さまに偃臥せし」(明治三五年 一部表記を変更) (44〜45p) 等々。 もっとも驚いたのは「平民新聞」の投稿で、新聞を読んでいると隣に座った乗客がのぞき込んで「声高く」音読することがよくあるが、社会主義

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    schrift 2007/12/16
  • 野性の精神は全体化する - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    相当に刺激的なである。 私たちが自明に考えている「思考のパターン」やそもそも「思考する」こと自体が、文字あるいは「書くと言う技術」に根ざしていると、「声の文化」との対比の中で明かされて行く。 「書くと言う技術」を持っていることは、かなり特別なことらしい。 これまでに、人間の歴史のなかで人の口にのぼったことのある何千という――ひょっとして何万かもしれないが――言語すべてのうちで、文学をうみだすほど書くことに憂き身をやつした言語は、わずかに百六にすぎないほどである。今日実際に話されているおよそ三千の言語のうち、文学をもっている言語はたったの七十八である。(Edmonson 1971,pp.323,332)いったいいくつの言語が、書かれるようになるまえに、消滅したり、変質して他言語になったりしたか、いまのところ数えようがない。活発に用いられていながら全然書かれることのない言語が、現在でも何百と

    野性の精神は全体化する - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2007/12/11
  • 後白河法皇 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    絵巻の読者を考える場合、いうまでもなく時代的変遷を考慮に入れなくてはならない。 その発生期、一〇世紀末といわれている時点では、前回引用した武者小路穣の指摘によれば、『後宮や高位の貴族の邸内奥深くのごく限られたもの』であった。 この時期、『伊勢物語絵巻』『竹取物語絵巻』『宇津保物語絵巻』などが存在したと『源氏物語』に書かれている。 しかし、これらはおそらく、後の『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などとは、趣が異なっていたのではないだろうか? 『竹取物語』ぐらいの長さになれば、もうすべての場面を絵画化することは考えられない。まして『宇津保物語』のような大長編の全編絵画化は、物質的にもむりな話である。 (「絵巻の歴史」 20p ) つまり、後の説話絵巻が絵巻を見ていくことで、物語を「読む」形式であるのに対し、発生期の絵巻は読者の側に共通認識として「物語が先ずあって、その中の一場面が、物語絵として描か

    後白河法皇 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2007/11/26
  • 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    書籍の電子化の話が喧しい。 また、実際に焦眉の課題になりつつあることもまちがいないだろう。 森銑三、柴田宵曲共著の「書物」は、こんな時期に読むのには、いかにものんびりしたかも知れない。 とくに希有の書誌学者であり、戦後の苦しい時期には、反町茂雄の古書肆弘文荘に勤務して口を糊したことさえある森銑三は、書物への慈愛に満ちていると思われている。 そして確かに、森はへの愛に満ちていただろうし、もし電子化に急速に流れを向けている現在にあったら、恐らく苦々しい思いを感じただろうことは想像に難くない。 しかし、森がこの「書物」の中に記している彼の読書法や書物に対する考え方は、単なる「愛書家」や、今、世に充満しに対する「フェティシズム」だけを根拠に、「はなくなりません」と言いつのる人々とはいささか異なるようである。 たとえば、森は、専門の著述家や出版社に対して、懐疑的である。 なおこの著述家という

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    schrift 2007/09/12
  • 江戸期の書物はなぜ整版か? - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    中野三敏・監修の「江戸の出版」を読んでいたのだが、江戸期の出版・印刷の用語さえ忘れてしまっていることに驚いて、書棚から古いNHKブックス「江戸の屋さん」を出してきて再読していた。 そのうちに、なぜ室町から江戸初期にあった「古活字」を日は捨ててしまったのか? という疑問を、再度、考えてしまった。 昨年10月に、田中優子の「より多くの部数を印刷するには、活字を整える技術が追い付かなかったのである。」という言葉を引用しながら、漢字文化圏の「活字」の多さが、その理由かと考えた。 技術的に多様な文字種をそろえることの困難さ、そのための資投下の必要性が、江戸期日の印刷・出版を「整版」に導いた、と漠然と考えていた。 東京大学総合研究博物館のhpにある西野嘉章編「歴史の文字 記載・活字・活版」によると(以下のURL 参照) http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_d

    江戸期の書物はなぜ整版か? - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2007/02/12
  • 形態/内容の二分法(1) - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    前回、電子書籍に関して、いささか舌足らずなことことを書いた。 直後に読み始めた長谷川一の「出版と知のメディア論」に、問題の質がより正確に論じられているのを知った。 まず長谷川は、「コミュニケーションは『伝達』か」、という問いから始める。 一般に考えられているのは、次のような過程だ。 まず送り手がいる。かれはなんらかの意図や内容をメッセージとして発信する。メッセージは種々のメディアによって運ばれ、受け手に届けられる。受け手はメッセージを読み、その意図や内容を把握する。このとき、送り手と受け手の関係は比較的固定されたものであることが措定され、かつ、その間を伝達されるメッセージは原則として意図や内容を忠実に形式化したものであることが暗黙のうちに了解されることになる。均質で透明なコミュニケーション空間内において、固定された二点間をある径路が結んでおり、そこを伝ってメッセージが流れていくという、郵

    形態/内容の二分法(1) - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2006/12/17
     「メディアが変化すれば、内容も不可避的に変化してしまう。しかも、読書は「内容=コンテンツ」の伝達ではない」
  • 「物」としての書物 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    電子書籍が取りざたされて、すでに10年以上を経過した。 何やらその間、十年一日、同じような話を聞かされている気がする。 この紙のの全盛期が終わろうとしているようだ。 これをいち早く察知したのは米マイクロソフト社のディック・ブラス副社長(当時)である。一九九九年にサンフランシスコで開かれた見市でのことだが「多くの国で二〇〇八年には電子書籍の販売部数が紙のの販売部数を超えるだろう」と、基調報告で語った。 (「ブック革命」 3p) 何をかいわんやである。 確かに電子書籍は、昨年、96億の市場規模になったと言われている。*1 しかし、その実体はコミックス・アイドル写真集・官能小説が主体であり、紙のを凌駕するといった期待は当面は持てないと思う。 携帯配信に群がり、あたかもケータイが「書物」に取って代わるといわんばかりの人々がいるが、しばらく前のPDAや読書端末の登場の時も、騒ぎ回ったのは同じ

    「物」としての書物 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2006/12/03
  • 聖書はいかに読まれたか? - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    ドイツに印刷術が出現したのは、言葉のすぐれた意味におけるが、の中の[聖書]が、ルターの聖書翻訳によって民衆の財産となった、まさにその時代のことだった。 (ベンヤミン・コレクション3 051〜052p) 活版印刷以前、あるいはルターの「聖書」以前、ヨーロッパの大部分の人たちにとって、「書物」は、生活と無縁のものだった。 この時期、人々は、はじめて「書物」と直接に出会い、「テキスト」と直接向き合う。 「読者」が誕生したのだが、この「原初」の読者は、「書物」とどう向かい合ったのだろうか? 香内三郎は、『「読者」の誕生』の中で、宗教改革の「反・偶像崇拝」運動とからめ、この問題を示唆する。 いうまでもなく旧約聖書は、中近東の先行文明の影響を受け、「偶像」・「イメージ」を禁止する。 モーゼの十戒は、次のように言う。 あなたはいかなる像(“graven image”)も造ってはならない。上は天にあ

    聖書はいかに読まれたか? - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
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    schrift 2006/11/20
  • 四十二行聖書は何部刷られたか? - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    出版不況と言われて、すでに久しい。 「出版」という業態に、構造的問題があるのだ、と直感的には感じている。 「不況」といわれながらも、毎日、夥しい「書物」が生産され、瞬く間に消えていく。 数多くの出版社が、「自転車操業」的に書物を出版し、消費されることなく(読まれることなく)市場から消える。 次の鹿島茂の指摘は、適切だ。 今は新刊のサイクルが変わってしまったために、新刊としては手に入らないが、古書店に回るほど古くないというがものすごく増えてきたわけです。数年前にでたというのが一番、見つけにくくなっている。 (「勝つための論文の書き方」 113p) 現在の、日の出版の流通体制そのものに、問題がある。 不可思議な「錬金術」が、この自転車操業の背景にあるが、ここでは触れない。 さて、グーテンベルクである。 四十二行聖書の発行部数は、いくつだったのだろう? と、ふと思った。 ヘルムート・プレッ

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    schrift 2006/11/20
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