日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残している。そのなかで維新三傑のひとりである、大久保利通については「底の知れぬ人物」として、非常に高く評価していたようだ。 大久保利通は、薩摩藩の下級藩士・大久保次右衛門利世(おおくぼじえもんとしよ)の長男として生まれた。西郷隆盛とは幼なじみの間柄で、同じ町内で育った。ふたりの父親同士も親しく、大久保は学問において町内でも抜きん出た存在だったという。 ところが、1850(嘉永3)年に薩摩藩藩主・島津斉興(しまづなりおき)の後継者問題で、斉彬(なりあきら)を擁立しようという派閥に味方した父が喜界島に流罪。子の大久保も連座して処分を受けている。 翌年に斉彬が藩主の座に就くと、大久保は斉彬に見いだされて徒目付(かちめつけ)に抜擢。斉彬の死後は一時的に身分を危うくする一
![渋沢栄一は明治当時「大久保利通」をどのように見ていたのか? | 歴史人](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/d197a061c5c1fed95e7cd032f5358150a14bd92a/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.rekishijin.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2021%2F08%2Fpl-99937422117.jpg)