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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (5)

  • 芥川龍之介 桃太郎

    むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)

    shiro-kurage
    shiro-kurage 2014/12/24
    ジャーナリストとしての芥川龍之介の…
  • 芥川龍之介 侏儒の言葉

    「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の序 「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。 星 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖(いえど)も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕(はら)んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生

    shiro-kurage
    shiro-kurage 2014/12/24
    軍人は小児に近いものである。…機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。
  • 芥川龍之介 大正十二年九月一日の大震に際して

    一 大震雑記 一 大正十二年八月、僕は一游亭(いちいうてい)と鎌倉へ行(ゆ)き、平野屋(ひらのや)別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先(のきさき)はずつと藤棚(ふぢだな)になつてゐる。その又藤棚の葉の間(あひだ)にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架(こうか)の窓から裏庭を見ると、八重(やへ)の山吹(やまぶき)も花をつけてゐる。 山吹を指(さ)すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)    一游亭 (註に曰(いはく)、一游亭は撞木杖をついてゐる。) その上又珍らしいことは小町園(こまちゑん)の庭の池に菖蒲(しやうぶ)も蓮(はす)と咲き競(きそ)つてゐる。 葉を枯れて蓮(はちす)と咲ける花あやめ  一游亭 藤、山吹、菖蒲(しやうぶ)と数へてくると、どうもこれは唯事(ただごと)ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来(じ

    shiro-kurage
    shiro-kurage 2014/12/24
    「善良なる市民」について。伏字は「不逞鮮人による放火だ」「不逞鮮人」らしい。
  • 青空文庫 Aozora Bunko

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