朝鮮王朝の代表的な儒学者,思想家。文科に及第していったん官位についたが,官界・政界の暗闘に絶望して隠退し,洛東江上流の兎渓(とけい)に庵を築いて学問に専心した。この時兎渓を退渓と改めて自分の号とした。その後度重なる官位任命を断り切れず,丹陽,豊基の郡主,成均館の大司成を務め,朝鮮最初の書院である紹修書院を設置させた。1559年,故郷安東に帰り,60年に陶山書院を建て,以後は学問と教育に専念した。深い内省に基づき,朱子の理気論を展開させ,理自体の運動性を強調する学説を提起,この問題は,以後朝鮮儒学の中心的な課題の一つとなった。同時代の李栗谷とともに朝鮮王朝時代の儒学の最高峰とされ,著作は日本でも江戸時代を通じて読まれ,林羅山や山崎闇斎をはじめ日本の儒学思想に大きな影響をもたらした。 →関連項目柳成龍 [生]燕山君7(1501) [没]宣祖3(1570) 朝鮮,李朝中期の儒学者。李滉。字は景浩
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