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ブックマーク / font-da.hatenablog.jp (6)

  • ザ・ノンフィクション「会社と家族にサヨナラ 〜ニートの光の幸せ〜」 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    で一番有名なニートことid:phaさんを中心に運営している「ギークハウス」が、テレビ番組「ザ・ノンフィクション」に取り上げられた。 「ザ・ノンフィクション後編は25日放映です」 http://pha.hateblo.jp/archive/2017/06/24 ギークハウスは、30代前後の人たちが共同生活を行うシェハウスだ。「働かない/働けない」人たちが集まって暮らしている。主な運営資金はカンパや就労している人たちの出資で賄っている。プログラマなどのIT関係者の溜まり場というイメージも強かった。社会の「常識」や「ルール」に馴染めなかったり、精神疾患・障害を持っていたり、失職を繰り返したりしている人たちが共同生活をしている。同時に抜きん出た「個性」と「才能」を持つ人が数多く集まる場所にもなってきた。 このギークハウスを取り上げた番組の中で私が引き込まれたのは、phaさんの「一人だけ生き残っ

    ザ・ノンフィクション「会社と家族にサヨナラ 〜ニートの光の幸せ〜」 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
  • フェミニストは女性の美について、何と言ってきたのか - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    web上でミスコンについての議論が盛んになり、ある弁護士がフェミニストについての知識のなさをさらけ出して、あちこちから批判を受けることが続いている。私は議論に参加できてなかったのだけれど、「ミスコンに反対する人=フェミニスト=差異のない社会を求めている」という珍説が出ているので、さすがにこれはどうかと思い、記事を書くことにした。 問題の記事は以下である。 ka-ya1789「ミスコンはヌードでやればいいのね」 http://d.hatena.ne.jp/ka-ya1789/20111025/1319551009 ka-ya1789「差別と差異」 http://d.hatena.ne.jp/ka-ya1789/20111031/1320065269 ka-ya1789さんは次のように書く。 ただ「美」という基準で女を判断するミスコンを批判すると、美による選抜はすべてNGなのかということになっ

    フェミニストは女性の美について、何と言ってきたのか - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
  • キリンが逆立ちしたピアス

    2月は水俣にいました。昨年から、長く滞在するようになり、「調査」という形で質問をして現地の情報を得ることよりも、親しい人たちと近況をお話しする機会が増えました。私はずっとセネガルの話をしていました。 経済発展を心から願い、貧しい暮らしから脱しようとするセネガルの人たちと、高度成長期に公害が起きた水俣の地がオーバーラップして見えることがたびたびあります。いま「環境問題どころではない」という人たちのリアリティに直面して、改めて水俣の歴史に向き合っています。水俣とは何度も出合い直すし、なにかあれば水俣を思い浮かべるけど、私は全然地元の人ではなく、ほかのところに行ってしまう研究者であるということを、今も考えています。 そんな繊細な話はさておき、研究者としてセネガルについて知りたいならば、やっぱりフランス語は必須なのでコツコツと勉強を続けています。やっと「がテーブルの上にいます」と言えるようになっ

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  • 非モテは語ることができるか? - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    秋葉原の事件後、犯行直前に犯人が書き込んだと思われる、文章が一部でアップロードされている。そこで語られたのは、「モテ」についてだった。 多くの人が、この事件を心理学や社会学によって分析することに、違和を表明している。説明が過剰だという人もいる。だが、そのような分析が溢れるのは理解できなくもない。 アップロードされている書き込みが、実際に犯人によってなされたとするならば、彼が犯行直前にこだわっていたのは「モテ」だったというこになる。「モテないから、無差別に人を殺す」そんなことがありえるのだろうか?親との不和や、精神の未成熟や、派遣労働の厳しさが理由であったほうが、よっぽど納得しやすい。実際には、私には納得できないが。 私がこのアップロードされている書き込みをみて、瞬間的に思い出したのは、杉田俊介「無能力批評」である。 無能力批評―労働と生存のエチカ 作者: 杉田俊介出版社/メーカー: 大月書

    非モテは語ることができるか? - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
  • 代替医療をどう考えるのか - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    ホメオパシーがweb上でえらく非難を浴びている。確かに、押し付けがましかったり、やりすぎると近代医療否定に走りそうな勢いを持った、代替医療だとは思う。その前に、自分の整理のためにも、医療人類学の基認識をおさらいしておこうと思う。*1 1960年代から「健康は幻想か?」という問いが立てられ始める。背景には1950年代の米国の健康ブーム、1970年代の西ドイツの健康ブームがある。とりわけ、後者は医療体制(保険制度)の不備を挙げ、医療体制における問題が指摘された。1948年に制定されたWHO(世界保健機構)憲章では、健康は以下のように定義されている。 健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない Health is a state of complete physical, mental and social well-being and

    代替医療をどう考えるのか - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
  • 「『萌え』の正体」(「國文学11月号」) - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    國文學 2008年 11月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 学燈社発売日: 2008/10/10メディア: 雑誌購入: 1人 クリック: 21回この商品を含むブログ (15件) を見る 「國文学」が、トチ狂って「萌え」についての特集を組んだので、一応買った。「萌え」というのは単なる流行語*1にすぎないだろうし、数年後にはたぶん「そんなのもあったねえ」とか言われるのだろう。もう「萌え」の話は飽和状態だし、今回の特集もあまり期待していなかった。 ところが、意外と数は面白い文章が載っていた。中でも、田透「『萌え』の行く先――文学は敗北したのか」は印象に残った。田さんは、以下のように文学史をまとめる。 吉隆明ふうに言えば、「大きな物語」=「共同幻想」に自己の居場所を見いだせなくなった70年代後半以降の大衆は、徐々に「小さな物語」=「対幻想」の内部へと入りこんでいった。この「対幻想」の中に「

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