2023 年 4 月にアップデートしました。 ビジネスにおいて「解像度が足りない」という言葉が使われるようになりました。この解像度という概念を、深さ、広さ、構造、時間の4つの軸で整理して、それぞれでどうやって解像度を上げれば良いのかについて解説しています。 このスライドを使った
新しい価値観が絶対的に正しいわけでもないのに「最近の風潮に付いていけてない」と言うだけで批判した気になってるブコメが多くて怖いよ〜 近大美女図鑑の話ね。俺もアレは悪趣味だと思うけどさ、「最近の風潮ではそう言うのはダメになってきてるから」では何の理由にもなってないのよ。 「ルッキズムだからダメ」も一緒な。身体能力や知的能力は良くて、どうして外見的魅力だけ取り上げることは許されないのか合理的に説明できるならいいけど、単にそれっぽい言葉出してるだけじゃん。 学問に関係ないからダメ?じゃあサークル活動の紹介も何もダメになるだろ。パンフは紀要じゃねえんだぞ。 批判したいなら、世間の風潮を持ち出さずに自分の頭できちんと考えてせえよ。 (世間じゃなくて、貴方が許さないのでしょう?) 「社会の風潮が絶対正しいマン」が戦時中には非国民探しをしてたし、戦後は旧日本軍を批判してたし、最近では脳死ポリコレマシーン
ツイッターでこれ言うとボコられるんですけど、美術館や博物館みたいな、静かにしていなければならず、教養がないとよく分からない空間、どちらかというとストレスに感じる人のが多いでしょ。
ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、英: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。 Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity. 無能で十分説明されることに悪意を見出すな[注 1] 例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かであるということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を示すのに用いられる。 上記の文言それ自体は、20世紀のペンシルベニア州に住むロバート・J・ハンロン (Robert J. Hanlon) という人の発言に由来するもの、とその友人などによって主張されたが、こうした考え方や類似の警句は、それよりはるか以前
ハンロンの剃刀という言葉がある。これは 『無能で十分説明されることに悪意を見出すな』 という考え方である。この考え方を聞いてハッとさせられた話を書きたい。 高校生の時の自分が疑問だったのが、『どうしてこんなにも高校の教科書の内容はひどいのか』ということだった。 自分が高校の教科書の内容を完全に理解しているといえるのは、数学と物理だけなので、この2教科に関してしか分からないが、少なくともこの2教科に関しては読者に理解をさせようと思って書かれている教科書は皆無といえる。数学に関しては論理的にあまりミスがない(一部ある)のだが、物理に関しては全く内容が正しくないどころか、教科書内で矛盾した記述が存在する。 それのせいで、物理に関して私は非常に苦手意識があった。自分はたまたま良い師に出会えたので苦手意識をなくせたが、まともな人間には物理の教科書の内容は理解できないと断言できる。 高校生のときは嫌が
私は艦これをやめました。制作者が「クリエイターの仕事は、いかにプレイヤーに進めたくても進められない、そういうストレスと苦痛を与えるかだと思うんです」と公言しているだけあって、禿げるから。坊主頭が禿げ上がるほど禿げるから。「これは楽しくて止められないんじゃない、ギャンブル的に止めることができなくて止められない状態だな。」そう悟って止めました。私はあのゲーム性に疲れました。心の健康に繋がらないゲームが良いゲームであるわけがない。(良い思い出もありますし、楽しかった、やって良かったと思っている複雑な自分がいるのも事実です) 本当に良いゲームって、どんなに悔しくても、どんなに上手くいかなくても、どこか爽やかな風が吹いているんですよ。 L4D2で見ず知らずの仲間3人とゾンビの追撃から逃げる。 もう4時間も同じマップをクリアできないでいる…回復アイテムも彼が持っている1個しか残っていない…え?それを俺
この寓話を元に彫られた壁絵。タイ北東部。 群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。世界に広く広まっている。しかしながら、歴史を経て原義から派生したその通俗的な俚言としての意味は国あるいは地域ごとで異なっている。真実の多面性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)、群盲象を撫づなど、別の呼び名も多い。[1] その経緯ゆえに、『木を見て森を見ず』 と同様の意味で用いられることがある。 また、『物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう』 ことの、例えとしても用いられる。 さまざまな思想を背景にして改作されており、ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで教訓として使われている。ヨーロッパにも伝わっており、19世紀にはアメリカの詩
長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播(でんぱ)して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。 流言蜚語(ひご)の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなけれ
電車内で化粧をする女性を「みっともない」という言葉で切って捨てるマナー広告が物議を醸している。 現物を見てみよう。 炎上しているブツは、リンク先のページ(私の東急線通学日記)の上から4番目、「車内化粧篇」だ。 リンク先には、駅貼りポスターと、動画バージョン(マナーダンス篇)が掲載されている。 ポスター版では、上半分に頬杖をついて車両内を観察する主人公の女の子、下半分に電車の座席に座って鏡に向かってアイメイクをしている女性の写真を配置している。 キャッチコピーは、手書き文字でこう書かれている。 「都会の女はみんなキレイだ。」 「でも時々、みっともないんだ。」 動画版は、車両の向かい側の座席で化粧をする女性たちを見て、顔をしかめて 「みっともな!」 とつぶやいた(「吐き捨てた」と言った方が正確でしょうね)主人公の女の子が、突然メイクアップ中の女性たちに向かって「マナーダンス」という攻撃的な振り
12/30(木) 東4【ユ18b 】🐄コヤマハルタロウ @hiphiphiphip_s 中学の同級生だった前田敦子をきっかけにAKB48を知り渡辺麻友や柏木由紀と同期で加入しAKB0048ではメインキャラの1人「藍田織音」を熱演、卒業後はAKBで培った能力が評価されハピネスチャージプリキュア!OPなど声優や歌手として活躍中のなかやんこと仲谷明香さんじゃ無いですか 2016-09-14 00:32:20
終戦の日って喜べばいいんですか? 悲しめばいいんですか? この問いに明確に答えられる“大人”は果たしているだろうか。 今年は「戦後70年」という節目ということもあり、例年以上に多くの戦争関連の番組が各局で放送されている。 特にNHKは、日本人捕虜の肉声を公開した「密室の戦争」、原爆投下直後に撮影された写真に映った被爆者の証言を元に最新技術でその真実に迫った「きのこ雲の下で何が起こっていたのか」、日米双方のプロパガンダ映画を検証した「憎しみはこうして激化した~戦争とプロパガンダ」、特攻作戦立案の軍の機密資料や幹部の証言を追った「特攻~なぜ拡大をしたのか~」、従軍看護婦の証言を通して戦争を描いた「女達の太平洋戦争」など、連日『NHKスペシャル』を中心に多くの戦争ドキュメントが放送された。 70年語り尽くされていたかに見えた「戦争」だが、決してそんなことはなく、新しい切り口や新証言などが数多いこ
こんにちは、ひねくれ者のMistirです。 さて、今回は前回の記事の続き。 mistclast.hatenablog.com 前回は「結局善行だって思うなら誰がどー思ってもやりゃいいじゃん」っていう非常につまらない結論に至りました。 つまらない結論なのはまあ、なんというか仕方ない。別に「変な結論だから真理」ってわけでもないしね。 さてさて。 今回は結構変わった話を。 「善人って嫌だねぇ」って話です。 とはいえ、「善行をする奴は嫌なやつ」みたいな話じゃない。結論から言っちまうと、「善の受け入れを強制する奴はダメだね」って話です。 この記事をぜひ読んでほしい。 girlschannel.net 僕、コレ読んで「地獄じゃねえか」って思ったんですよ。 このコメントが象徴的かなって思ってさ。 21. 匿名 2015/10/29(木) 21:21:22 [通報] ひねくれたじじい 人の好意はありがたく
しばらく間が空いた。で、反知性主義についての簡単なお勉強を経て、ぼくが手に取ったのは『日本の反知性主義』だった。 この本の題名は、明らかに『アメリカの反知性主義』を意識しているようだ。その一方で、この面子を見ると、ぼくが冒頭に挙げた『現代思想』の執筆者と重なるようであり、「反知性主義」を「バーカ」の意味で使う連中の集団のようにも思える。で、どうなのよ? それがぼくの興味だった。が、その前に…… 「反知性主義」をちがう意味で使ってはいけないの? まず、そもそも「反知性主義」を「バーカ」の意味で使ってはいかんのか? ぼくはそうは思っていない。ぜんぜん構わないと思う。ただ、その場合にはホフスタッターとかを引き合いに出してはいけない。まるで意味がちがうからだ。 なぜか? ホフスタッターの本は、名著とはいえ決してだれでも知っているメジャーな本ではない。ぼくはたまたま、漠然とホフスタッター的な意味合い
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