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思想に関するslmのブックマーク (8)

  • 東浩紀講演「情報社会の思想」 - メタサブカル病

    世界文明センター発足記念講演会 東浩紀「情報社会の思想」 渦状言論に当日使われたスライドがアップされています。 http://www.hirokiazuma.com/archives/000276.html はじめまして 風邪気味なので鼻をかむなどお聞き苦しいところがあるかもしれない 90分講義で30分質疑応答にする 世界文明センターの最初の講演会ということで緊張している 猪瀬直樹さんの前座みたいなもの 自己紹介 93年くらいから文芸誌とか思想誌に文章を載せていた 大学院生とライターの中間の仕事をしていた ジャック・デリダについての博士論文がになったので 一般的な人には現代思想の人だと思われていた でもアイデンティティとしてはサブカルチャーと情報社会 「情報自由論」中央公論連載未完 情報技術セキュリティと社会 別の評論集に収録される 「自由を考える」2003年、NHK出版 環境管理社会

    東浩紀講演「情報社会の思想」 - メタサブカル病
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    slm 2007/02/20
  • 批評におけるパラダイムの混在 - dzogchen’s diary 薔薇十字制作室 はてな出張所

    一体、何がいいたいのか、私にはわからない。 なぜ、文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられるのか、私にはさっぱりわからない。 どっちかが上位の価値基準で、もう片一方が下位の価値基準ならばわかる。しかし、並列に、対等の立場で並んでいるのだ。これをどう解せばいいのか。 どっちかがオールマイティーに、全般的に通用し、片一方が部分的に、ある条件下でのみ適用されるというのならばわかる。しかし、そうではない。互いに両立しない理論を唱える論者の名前が、まったく対等に並んでいる。 批評文を読んでいると、往々にしてこのような事態に直面する。何を言っているのかと、これはこうなのだと言いたい気持ちと、言っても無駄なことだ、現代は教養自体が崩壊しているのだ、ドストエフスキーの名前を知っているだけでも評価しておくべきだという気持ちが入り混じる。 1.現象学・実存主義のパラダイム 2.構造主義のパラダイム 3

    批評におけるパラダイムの混在 - dzogchen’s diary 薔薇十字制作室 はてな出張所
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    slm 2007/02/18
  • 2007-02-04

    重要な読書体験でした。 ひきこもりに興味があって、東京そのものにほとんど興味がない私は*1、地名等を適当に読み飛ばしつつ、 p.46 ヴァーチャルな地元意識 p.51 「ニート的」環境をめぐる議論 p.208 職能集団の街 p.222 もはや「危険な街」は存在しない p.227 都市のセキュリティ化の背景、 ゴミ出し問題と環境管理 地域性のヴァーチャル化 コミュニティや生き方の「多様性」を擁護する方向と、人間工学によって環境の「安全性」に配慮する方向との相容れなさ が印象的。 *1:とはいえ、このが東京のガイドブックになりそうです。 少し引用。(p.252-5) (『家族、積みすぎた方舟』の著者マーサ・ファインマンは、) 親密圏としての家族を徹底的に脱構築しつつ、ケアの与え手と依存者との関係性の場、養育単位としての家族というものを再構築しようとしている。 (中略) リベラリズムと家族との

    2007-02-04
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    slm 2007/02/06
  • 進化論への言語ゲーム的な理解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    言語ゲームは後期ウィトゲンシュタインの著作「哲学探究」で提出された用語である。はっきり言ってしまうと、言語ゲームという用語は多くの人に使われているが、当のウィトゲンシュタイン自身がきちんと定義してない上に、この用語を多様な文脈で用いているので、この用語を説明するのは困難だ。ネット上を探しても適切な定義はなかなか出てこない*1。しょうがないので、まず言語ゲームの特徴を説明した後で、それを進化論の理解へとつなげてみたい。 ここで言語ゲーム格的に説明する気はまったくない。するのは一部の特徴への言及である。語を正確には定義できないことは言語ゲームから帰結することでもあるが、それは置いとく。言語ゲームの特徴は規則が前もって決まってはいないことである。「あいつは賢いよな」と発言したとき、その言葉を文字通りに受け取れば「ある人物が賢い」ことに関する記述や報告である。しかし、相手がこれを皮肉や冗談と受

    進化論への言語ゲーム的な理解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 永井均「これがニーチェだ」 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    誤解のないように始めに指摘しておこう。永井均は現代の日では珍しい、物の哲学者であるということだ。日には哲学に関連した著作はたくさんある。にもかかわらず、哲学者と呼ばれるにふさわしい人物は少ない。たとえば、木田元は第一級のハイデガー研究者かもしれないが、哲学者とは呼べない。柄谷行人のように理論的著作を書く人もいるが、やはり所詮は評論家に過ぎない。そうした中で、物事を一から考えて組立てることのできる数少ない人物として永井均を挙げることができる。 これは幾多のニーチェとは比べ物にならない傑作ではある。学者の書くニーチェにはうんざりさせられざるを得ないし、ハイデガーのニーチェ講義のようなものはニーチェというよりむしろハイデガー人の哲学といってよいし。それに比べれば、ニーチェの哲学説がよく整理されて書かれているし、質も高い。ならば、何か問題があるというのだろうか。 永井均はこの著作の最後

    永井均「これがニーチェだ」 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
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    slm 2006/09/27
  • 研究メモ 『所有と国家のゆくえ』+ちょっとだけ本田ブログ閉鎖事件(追記あり)

    今日は泊り込みの介助(介護)の仕事の日。寝付けないのでパソコンを借りて書くことにした。時期的には、『所有と国家のゆくえ』で扱われているネタについて時間をかけて書きたくないし、田ブログ閉鎖事件についてはもっとそうだ。最近はそういうことについてあまり考えていない。だけど、せっかくだし、なるべく単純に、書くことにしよう。あまりの内容には触れずに、立岩氏と稲葉氏の立ち位置について書く。 所有と国家のゆくえ (NHKブックス) 作者: 稲葉振一郎,立岩真也出版社/メーカー: 日放送出版協会発売日: 2006/08/01メディア: 単行購入: 2人 クリック: 11回この商品を含むブログ (57件) を見る 『所有と国家のゆくえ』についてはブログ上では 『所有と国家のゆくえ』反響 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060903/p2 『所有について

    研究メモ 『所有と国家のゆくえ』+ちょっとだけ本田ブログ閉鎖事件(追記あり)
  • 敢えて断罪にコミットすること - opeblo

    なぜ「断罪」してはいけないのか? - Apeman’s diary うん、断罪せよと言いたいわけではないです - good2nd http://d.hatena.ne.jp/ittuan/20060902/p1 http://d.hatena.ne.jp/URARIA/20060903#p2 「現在の価値観で過去を断罪するな」という考え方について。色々考え方があるのだろうけど、僕はApemanさんの考え方に近いですね。 そもそも「現在の価値観で過去を断罪するな」という言い方自体がまず恣意的ではないかと思うんですよ。断罪して正義に酔ったり、高揚感を得るのは別に「過去」に対してだけに限らないわけですから。何で「時代」に対してのみ価値相対主義を持ち出すんでしょうね。 何が言いたいのかというと、自らの価値観に依拠して、価値観を共有していない他者を断罪しているのは、「戦前」でも「中国」でも一緒なんで

    敢えて断罪にコミットすること - opeblo
  • ネット社会は資本主義的な秩序を乗り越えるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    自由への熱狂 産業革命は19世紀であるが、16世紀ルネサンスにはじまり、宗教革命、科学革命、大航海時代など、人間主義、啓蒙思想の普及という近代化の潮流の帰結として起こった。さらに言えば、このような人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、初期のキリスト教であり、紀元前の精神革命といわれるものが、中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。このような潮流の中の産業革命、そしてその後の資主義の躍進を考えるときに、その根底に「人間中心主義的なもの」が流れている。 資主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造へ転換された。むしろ資主義とは消費社会のことを指す。産業革命後、経済システムを下部構造として社会は構造化され、家庭、学校、企業などがつくられたが、消費社会という欲望の熱狂の中で、容易に書き換えられている。 大量生産革命(フォーディズム)、大量消費革命(マクドナルドイズム)、サ

    ネット社会は資本主義的な秩序を乗り越えるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    slm 2006/09/02
    >熱狂とはただ熱狂としてあり、ただ熱狂へ向かうのだ。
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