〔訳者注〕: 本エッセイの初出は、著者の所属する米スタンフォード大学フーバー研究所の「フーバー・ダイジェスト」への掲載。 日本語訳タイトルの「セシウム街道をゆく」には、あの司馬遼太郎氏の「街道をゆく」が含意されている。 本文をお読みになれば分かるように、著者は、福島の風土・山河をセシウムまみれにした原発事故に憤り、日本の行く末を案じている。 フクシマから続く「セシウム街道」は、やがては「核の冬」に直面する厳しい道程である。 それでも私たち日本人は冷静さを失わず、歩き続けなければないし、歩き続けることができる――と、著者は私たちを、励ます。 (ここから本文) 日本人は怒りを覚えている。 なおも、ないがしろにされていると-放射能と官僚制の囚人として 一年以上もの間、私は日本政府と東電が、耐えがたいものに耐え、昨年春の地震と津波が引き起こした、あの息をのむような破壊の修復にとりかかる勇気を振り絞