1980年創部のラグビーチーム。1995年、創部15年目にして初の日本一。2001年には日本選手権を含む5冠を達成。2016-2017シーズンにはジャパンラグビートップリーグを全勝優勝。日本選手権3連覇(7度目の優勝)も達成。チーム名の由来は、サントリーの“サン”、太陽の“SUN”と巨人「ゴリアス(GOLIATH)」から。 「ゴリアス」は、巨人・ゴリアテの意で、ゴリラは「タフネス」「テンダー」「スピリチュアル」を象徴している。

サンゴリアスやラグビーを語る上で、必ず出てくるラグビー用語やサンゴリアス用語。そんなワードをサンゴリアスのあの選手、あのスタッフならではの解説で分かり易く解説するコーナーです。 「パイルアップ」(解説:尾崎 章) アタック側が持ち込んだボールを密集(ブレイクダウン)から出せなかったり、反則ではないものの密集の中でボールの動きが止まってしまった時がパイルアップです。モールとかスクラム、ラックで起きるプレーです。レフェリーが笛を吹いて「パイルアップ」とコールしてプレーを止め、客観的、あるいはその前の段階で有利な状態のチームのボールで、スクラムからプレーが再開されます。 ボールを奪い合うために選手が重なって倒れてしまい、ボールが出なくなってプレー出来ない状態のことです。モールが完全につぶれた状態で、両方の選手が多い被さってしまったモールなどの場合に多いです。本来は倒れた選手はロールアウェイ(その
'15年以降のジャパンの大躍進を牽引してきた不動のリーダーは、その統率力をいかに身につけたのか。代表デビュー時の主将に話を聞き、誰よりも日本を愛する男が持つリーダーシップの“原点”に迫った。 あそこがターニングポイントだったな。 振り返ると気づくときがある。歴史の変わり目。ラグビー日本代表にとっては、2008年がそういうときだった。 '03年、'07年とワールドカップ(W杯)2大会で主将を務めた箕内拓郎が、この年のパシフィックネーションズカップ(PNC)最終戦、サモア戦で負傷退場。これが代表でのラストマッチになった。前年のW杯カナダ戦の同点コンバージョンキックでヒーローになった大西将太郎も、同じサモア戦が最後の代表ジャージーとなった。 箕内や大西が、当時の日本代表にとっては年間最大のターゲットだったPNCを戦っていたころ、ウェールズで開かれていたジュニア世界選手権で厳しい戦いに臨んでいたの
成績優秀だった宿沢は東京大学への進学を考えていたが、東大紛争により入試が中止されたため、早稲田大学政治経済学部へ進学した。早大での成績は「優」が20個以上もあったという。英語も堪能で、ラグビーの海外遠征時には現地で英語でスピーチできるほどの宿沢は、アマチュア・ラグビー界では文武両道の「模範生」と言われた。 ラグビー部には、入学早々入ったわけではない。毎日、東伏見グラウンドで行われている練習風景を見つつも、入部を躊躇っていたことから、その光景を見た当時の監督・木本建治がある部員を介し、『あいつ、いつも練習風景だけ見て帰っていってるけど、本当はやりたいんじゃないか。だったらあいつを入部させろ。練習についていけなくなったら、そのうち辞めるだろう。』と言い、宿沢を入部させた。木本が課した練習メニューはかなりハードだったが、入部後の宿沢はメキメキと頭角を現し、1年生時からレギュラーに定着。160cm
第56回日本ラグビーフットボール選手権大会兼トップリーグ総合順位決定トーナメント決勝、18季ぶりの優勝で平尾誠二の遺影を手に表彰式に臨む前川鐘平(2018年12月15日撮影) 平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年〈昭和38年〉1月21日 - 2016年〈平成28年〉10月20日)は、日本の元ラグビー選手。日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任し、ミスター・ラグビーと呼ばれた[1]。 1963年、京都府京都市南区出身、京都市立伏見工業高等学校、同志社大学商学部商学科卒業。同志社大学大学院総合政策科学研究科修了。小学校時代は野球少年だったが、京都市立陶化中学校(現・京都市立凌風中学校)入学と同時にラグビーを始める。理由は「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。そこでラグビー部を見たら、12~13人程度、先生もとてもい
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