冬の受験期になると、「東京都立大学の受験生が誤って都立大学駅で下車してしまいました」というニュースを耳にする。これからが懸かった時に試験場を間違えてしまった受験生には何とも気の毒だが、もはや冬の風物詩のような出来事になっているのもまた然りである。東京都立大学が都立大学から去ったのはもう20年以上前だが、なぜ「都立大学がない都立大学駅」が存在し続けているのだろうか。その理由はもう語り尽くされているが、この駅名はあながち「名は体を表さない」とも言い切れないのではないか、とも思う。 1927年の東横線開通当初、この駅は「柿ノ木坂」駅といった。第1回「01.自由が丘駅」編でも述べたが、東横線開通までこの辺りは農村であり、江戸時代は幕府のお鷹場であった(今も隣の学芸大学駅近くに「鷹番」の地名が残っている)。目黒区もまだなく、荏原郡碑衾町(ひぶすままち)といった。概ね目黒区の西半分(碑文谷村・衾村)を
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