李登輝が以前このことを嘆いていた。しかし、世襲の問題は実は政治家に限らない。あらゆる分野にある。広義の閨閥といってもいい。大分教育委員会の問題は、あまり指摘されているふうはないと思うが、教育界の世襲がベースにあると思う。たぶん、共産党ですら世襲的になっていると思う。
たまたま日本で生まれただけだし。 日本への愛国心なんてないし。 けっこう自分だけハッピーならいいし。 なにより、日本的な空気って重いじゃないですか。 っていうか、適当に、中間的な沖縄に逃げちゃいましたけどね。 で逃げられたかと思ったらダメでしたね。 オレはダメね。 外国とかに逃げられる人は逃げたらというのもいいんじゃないの、とは思いますよ。 日本にいて、そういう道もあるみたいにフカしているのは意味ないとは思うけど。 っていうか、実際に体ごと逃げてみて、ああ逃げられないじゃんという、日本を見つけたら、あまり愛国的というかナショナリスティックにならなず、自分の大切なものとして、それはそれなりに受け入れればいいんじゃないですか。 日本ってそんな悪い国じゃないですよ。 っていうか、いい国でしょ、他の国の人も日本人になったらぁ、とか開いて言えるといいと思いますよ。大声で言うと嘘になるから。身近なとこ
ムネオ流マラソン術 ~仕事人間でも走れる42・195km~: 鈴木 宗男, 鈴木 彰 最近、暑すぎて走れねぇ。
⇒誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ - A Road to Code from Sign. この発言が事実だとすれば、そしてそれがスルーされたのだとすれば、もう『ロスジェネ』には何も期待しないし、するべきではないと思った。既存の左翼に不満を表明するのも、アートと政治を融合するのも勝手だが、搾取されている人間のガス抜きのために、別の誰かを、国家まで持ち出して暴力的に搾取してよいなどと考える人間に、貧困や差別を論じる資格はない。 その怒りはわかる気もする。 dot_hackさんの言われるのは、差別の無前提的搾取の発想ということなんだろうと思うが、思想的には、性的な差別の社会構造化を想定してしまう思想の恐ろしさということではないか。 私はもう一つ思った。 この問題がそういう性差別の社会構造化によって、社会緩和として想定される発想の方向性に萎えた。 それこそが従軍慰安婦問題の一つの本質だし
細かいことに対し、目くじらを立てるつもりはない。要は公務員としての自覚の問題だ。 慣例だったんだから、これから変えますでいいんじゃないのか。たいした額でもないし。というか、これで干上がるタクシードライバーもいるか。意外と、特定ドライバーが官僚のアンテナというか秘書的だったしたのかも。 ちなみに⇒タクシーとマッチポンプ - おおやにき そういえば。 飛行機のマイレージとかも、あれも、キックバックだよね。だよねだよねだよね……。
⇒ムネオ日記2008年6月6日(金) : 宗男日記から - 鈴木宗男ランド ブログ by宗援会 北方四島の先住民族もアイヌ民族であり、サハリンも同じである。「北方領土はアイヌ民族が先住民族であり、そのアイヌ民族は日本国民である。歴史的事実を踏まえて、ぜひとも北方領土を日本に返して戴きたい」というアプローチも、ロシアに対してできる。サハリンではガス、油が掘られている。「メドベージェフ大統領、この地を開拓したのもアイヌ民族です。日本に優先的にエネルギー供給をお願いしたい」と言うこともできる。 アイヌ民族を先住民族と認めることで、日本もやっと国際的スタンダードに立ち、価値観を共有することになった。これからが始まりである。 先住民族は現存の近代国家の線引きや歴史とは異なる背景を持つ。
まあ、仮に問題とかしてしまう。 「窓が開いてますね」というのは、どういう意味があるか? 「窓が開いている」という認識表明以上の意味はないとしてもいいけど。 日本語の場合。 「窓が開いている」と「窓が開いてます」は同じではない。というか、そういう対比のスタイルに置かれるというか、いちおう純粋にはラングではなく、ソーシャルというかプラグマティックスの問題でもあるのだけど、ラング的な部分が食い込んでいる。 簡単に言うと、「窓が開いてます」は不可避に会話、対人関係の文脈に組み込まれ、「窓が開いている」はそうした文脈に自由であるというより、対人関係の別の含みが出る。 そして、それらに、「ね」「よ」「な」とかいろいろな、対人関係的なニュアンスを付加する辞が存在し、それらは結局、対人関係での機能をもつ。 で。 「窓が開いてますね」は、他者に対して、「締めろよ」であったり、「寒いじゃないか、場所を変えろよ
誤解や周知不足による混乱はいまだに見受けられる。例えば保険料の年金天引きだ。対象者1300万人のうち1100万人は、これまでにも国民健康保険(国保)などの保険料を負担してきた。 ところが、これまでの保険料に上乗せして徴収されたと思い込んでいる人が少なくない。「年金天引きで生活が苦しくなった」といった苦情も聞かれる。 年金記録問題が解決しない中での天引きだっただけに、「本来の年金額を払わずに、徴収だけするのは納得いかない」との批判も強い。だが、天引き制度が悪いわけではない。窓口で払う手間が省け、行政コスト削減につながる。徴収漏れもなくなる。天引きをやめても保険料負担がなくなるわけではない。政府は天引きのメリットをもっと説明すべきだろう。 あの騒ぎはなんだったのだろうと思う。説明不足がいかんということだったが、新制度への批判は実際にはなかった。 これまで高齢者の大半は市町村が運営する国保に加入
⇒なぜ私が死にたくないか そんなみじめな顔のままこの世に別れを告げたくない。 別れる時は、悔いのない笑顔で「さよなら」って言いたいんだ。 人によるのかもしれないけど、みじめさは一生つきまとうよ。 でも、それでも、別れるとき、そして悔いを抱えて、そして運悪いと、ぎゃーとかいうけど、最後の最後は笑顔で「さよなら」って言いて死ぬことは可能だと思うよ。 俺はそれは信じてる。 静かなる細き声: 山本 七平 人の生涯はさまざまであろう。外面的には、幸運な人もいようし、不運な人もいるであろう。しかし晩年になってみれば、おそらくその人の外面的な運不運に関係ないものが、一言でいえば、振り返って生涯に何の悔いもない「恵まれた生涯か否か」が、自ずとその人に表れてくるのであろう。そしてそれは、求めれば与えられるのであり、その人の幸不幸とは結局それだけであろうと思う。
⇒隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記 ⇒はてなブックマーク - 隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記 この式は、「質量に加速度を掛けたものが力である」ということを表しているのでは決してない。この式は「物体mに力Fを加えられたならば、その結果として加速度aが生じる」という因果関係(原因・結果関係)を表しているのである。 否定はしないけど。 ちなみに、F=maというのは、質量の定義と考えたほうがいいと私は思っている。 日常体験としては、質量というのは、重さなわけだけど。 たとえば、無重力空間にいるとする。そこで重さはゼロになる。では質量はどのように考えられるかというと。m=F/aとなる。 ここで仮にaを一定とすると、Fがmに比例する。 つまり、無重力空間では、ふわんとした物体に同一の運動を与えるための力の差として質量がわかるということ。 無重力
社説的には特に話題はなしでよいのでは。日銀総裁騒ぎ、結局馬鹿騒ぎに収束しそうだ。 欧米紙を見ていると、日本でもそろろそどっかがジンバブエ問題に言及してもよさそうなものだがない。 こうしてみると、総裁職を担えるのは日銀出身しかおらず、総裁代行の白川方明副総裁の昇格が最も現実的選択肢だろう。 3月12日⇒極東ブログ: 日銀総裁人事問題雑感 差し替えとなり「白川方明・京大大学院教授」となるならば、これはこれで手順通りすんなりと丸く収まる。そうなれば、今朝の大手紙社説は、「経済政策形成の研究 既得観念と経済学の相克」(参照)が改訂されおりに追記されるべきエピソードとなるかもしれない。 この社説にガボン以外の国名が出てこないのが象徴的。 警察の裏金問題はここ数年、各地で内部告発によって噴き出した。いまや裏金の存在は公然の秘密だ。なかでも捜査報償費は出張旅費や食糧費とともに疑惑の的だった。宮城県では市
⇒404 Blog Not Found:結婚って何だろう - 書評 - 「婚活」時代 妻と私は、三年の同棲を経て結婚した。そして結婚してから長女の誕生までは2年を経ている。私が頑固不断だった証拠としては充分だろう。この「不断」を「決断」に変えるのがまさに「婚活」なのだが、しかし本書には「不断を決断に変えるにはどうしたらよいか」は書いてあっても、「そもそもなぜ彼/女が頑固不断になったのか」までは書いていない。 なぜ彼/女たちが頑固不断になったのかまではわからない。しかし私自身の場合はわかっている。 両親の結婚が、失敗だったからだ。 ちょっと下種な視点でいかんが、ほぉと思った。 最近ネットはこの手のカミングアウトが多いかな。 何をもって結婚の失敗と成功を分けるかは議論の余地があるだろうが、子供の目から見て「うちの両親の間はまずい」と判断される例は、少なく見積もっても1/3、下手すると1/2ぐら
⇒ソフトウェア技術者としての残り時間 - naoyaのはてなダイアリー 自分は残った時間で何を選択して継続すべきか、そういう岐路に立っているのだと思います。京都に来て一週間が経とうとしています。何を選択するかを考え続けたり、ライフワークとして何か継続するための土地としては悪くはないな、と感じています。何が自分にそう思わせるかについては、まだ自覚的ではありません。 ま、それはそれとして。 ソフトウェア技術者としての残り時間というのと、人としての残り時間、というのは、ちょっと違うというか大きく違うというか。 後者が前者より30代後半から大きくなるのだろうと思う。 あと、意外と、脳はボケない。 よくネガコメで、私のことをボケとか言う人がいるけど、まあ、その人からは私が老人惚けに見えるというのは否定しないけど。 「老い」の感覚はむしろ、人生長くなってしまった学習効果のマイナス面にある。スティーブン
竹熊先生のこれ⇒たけくまメモ : 70年代は変な時代だった ソーダ水の中を貨物船が通る(「海を見ていた午後」)なんて、それ以前のポップスや歌謡曲にはなかった種類の歌詞で、今聴いても確かに天才だと思いますけどね。「60年代的なるもの」が、ここでは見事に断ち切られている。あの、現代の日本を舞台にしているのに、いつの時代のどこの世界を歌っているのかよくわからない生活感のないフワフワした感じは、まさしく70年代でしたね。 うまく言えないので、それは違う、というのでもないけど。 ユーミンにはユーミンの60年代的なものがあるんですよ。 もしかして竹熊先生は地方出身者かなと思ったら、世田谷でしたか。するとやはり、57年生まれの私と60年生まれの竹熊先生とでは差があるのかな。 ユーミンの60年代は、アメリカン・カルチャーというか、進駐軍の香りを残しているんですよ。 ある意味決定的なのは『Laundry G
⇒asahi.com:少女たちの性はなぜ空虚になったか [著]高崎真規子 - 新書 - BOOK 性をめぐる意識に関し、10代は意味や価値を見いだせないセックスに逃避する空虚さを抱えているという。時代と性意識の変化をたどる。 少女たちの性はなぜ空虚になったか (生活人新書 241): 高崎 真規子 おや? 少女たちはなぜHを急ぐのか (生活人新書): 高崎 真規子 ただのネタか?
昨今の疑似科学批判ってなんか浅薄だなと思う。水が語るわけないし、進化の過程に神が介在するわけじゃん。世の中そういう人はいるし、そういう人だってまっとうに生きているかもだから、そんなのほっとけというか、悪徳ビジネスとかいうなら、消費者問題として区別すればいいんで、スジが違うように思う。 量子力学における存在の不可分性みたいのは、もうかっこうの疑似科学の餌になるし、意外と欧米で多いんだけど、これもどう語るかによるわけで、いわゆる日本の物理屋さんは、何か不思議でも? という反応が多い。いわく、だって量子力学的にそうでしょ?ということ。ま、それはそうだが、ベル不等式とかが現実に検証されると、検証された実体は量子力学を越えているあたりは、日本の物理屋さんには通じがたい。 補足すると、アスペの検証というのは、我々の人類の科学による自然の対応、つまり実験的方法が知り得た事実であって、ペル不等式から実験は
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