ネットでの人のつながりを話にしたいと思って早4年。具体的なものを考え始めて早1年。いつ形になるのか正直分からんが2008、9年ぐらいにはむにゃむにゃ。 ブログとかで日記を書く行為は、リアルをネットに流入させるのではなく、ネットとリアルの交換作業になった。 今なお日常の影響力は強いが、確実にネットの風潮は日常に影響を与え、人の言動を変えている。 今のカルチャーは以前までネタでしかなかったサブカルチャー。それを掘り起こしたのは紛れもなくネットとリアルを交換し、混在させたコミュニケーションツール。 駅のホームにいる帰りの女子中学生たちが「ハレ晴レユカイ」を歌い、そこらの大学生はMixiの更新と昨日ニコニコ動画で見たアニメについて語っている。そんな今日を見て思った。 場所を考えもう少し声のボリュームを下げていただきたいと密かに思う私はきっと固定観念に縛られた古い人間。まだ若いのに。
gallo44(吉田健一)/正月書き下ろし →http://www3.ocn.ne.jp/~gallo44/ -14-(近藤一馬)/3巻告知絵{2} →http://olive.zero.ad.jp/%7Ezbi89990/ 正月です。 エウレカセブンは当然お休みです。二度目にして最後の休み。 休みといって休むわけがない。朝からこれ書いて、何やってんだ自分ですよ。 GyaOの配信は殆ど見る暇なくて、キーワードも演出も全部脳内補完でやっている杜撰さなのですが、何となく構造が解りやすくなってきた気もしないでもない。 構造も何もあったもんじゃないとか、駄作とか位置づけるのは否定しません。というか否定できません。必要ではあるのだけれど重要ではないと言われる1st、2ndシーズン。話に組み込んでしまった以上、どこも削りづらい構成になっているのではあるが、節約家にとってはデッドスペースのようで。謎とし
どうしてこう私の趣向は周囲の人とズレるんでしょうかね。 世間で言われる評価の高い"名作"、もしくは話題の渦中に置かれるような"話題作"は、大抵どこか強い癖らしきものがあるものが多いので、さらりと進めないそういったのを避けてるうちに、2票中1票は絶賛でもう1票は酷評されてるようなよく分からない評価の付いた何かに、私は惹かれていってしまうのではないかとも思ったりする。自分というものを持っていないだけに。 いや、柄にもなく人と自分を比較するからいけないのか。結局は人の趣味など関係なくて、自分が好きかそうでないかだけが重要なのなのだから、人を気にせず、また人に薦めず生きていくことが私にとっての鍵なのか。 こうして信じられもしない自分を信じることで誰かと一層ズレていく。振り返って見てしまう隔絶された世界に悲しくなる。 なのでしょうがなく、悲しみながらもギリギリ隔絶されぬ境界で世界を見ております。 今
そもそも感想って何?自分という存在に対して外部が影響してきたから、外部が自分にどう影響してきたかとか、何も影響ありませんでしたとか思ったことを伝えるために説明するのが感想。そういうものならば今さっき書いたのは感想という概念に対する感想であることは間違いない。感想という現象の自分なりの分析なのだから。 5月に書いた「COMPLETE BEST」の記事以来、"書く"という行為が凄い悩ましかった。事実だけを正確に伝えたり、商品を買う気の無い人も何か情報を得られるような、そんな理想の高いものばっかり気が付けば目指してたわけで、「自意識過剰甚だしいな青二才」と囁く自分が絶えず書く行為を妨げてきたわけです。 かといってジャスト無感世代である私は、何かに対する感想がすぐ言葉に置き換えられる人間ではない。与えられた物はそれとして受け止めてしまい、年上の人が書くような自己を持った揺ぎ無い思想がある感想を書け
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