福島・いわき市出身、27歳の若き社会学者。2006年に福島でフィールドワークをスタートし、震災前から地元の声を拾い続ける。 歴史的経緯と社会学的考察を踏まえ、この男は“フクシマ”を、原発問題をどう見るのか──地元民として、そして社会学者として。 ——3・11前から書かれた著書『「フクシマ」論』が、福島の原発事故を受けて反響を呼んでいます。今、この本が社会の中でどのような機能を果たしてほしいと思っていますか? 「原発に対して、周辺住民は『東京電力が大丈夫と言っているから大丈夫だろう』というような、ある種の信仰のようなものを持っていた。それを拙著の中では“信心”と表現しています。その信心の対象が、新たな何かに移り変わるだけで物事が処理されてしまうことが、いちばん危険。具体的に言うと『忘却して、反復する』ということです。その構造を繰り返さないために、読まれてほしいなと思っています。それから僕は、
社会システム理論に依拠した本を書評していてあらためて感じたのは、社会システム理論好きの人々は、あらゆる社会現象を一つの枠組みで捉えたいという野望にとり憑かれた人たちだということだ。例えば、合理的選択理論は非合理な行為を説明できない。デュルケム理論は、ある種の反社会的行為を説明できない。しかし、システム理論ならば、どちらも説明できる。というわけだ。ミクロからマクロまで一貫した図式で説明できる。 ただ、彼らのいう説明は説明ではない。ただの記述である。日常言語で記述されたものをシステム理論のジャーゴンで言い換えているに過ぎない。社会システム理論は、これまでほとんど反証可能な理論を生み出さなかった(とはいえ、パーソンズの議論の一部は反証可能だったし、生産的な議論を生み出した。結果的にはパーソンズが考えるほど近代社会は一様でないことがわかったのだが)。こういった批判はこれまでも繰り返し述べられてきた
世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学
4 社会現象を総合的に認識する 4−1 社会現象の総合的性格 「プロ倫」の教訓 第三章でくわしく紹介した「プロ倫」はいろいろなことを教えてくれた。思いつくままにあげてみると―― (1)資本主義という巨大なシステムも、それを生みだしたのは人間の行為[禁欲的プロテスタントの禁欲的職業活動]であること。 (2)人間の社会的行為はなんらかの主観的意味にむすびつけられていること。 (3)したがって、社会的な事象を解明するためには、行為者の抱いている主観的意味の理解が必要であること。 (4)行為者の主観的意味はかならずしも客観的結果と一致しないこと。つまり、あくなき利益追求マシーンともいえる資本をつくりあげたのが、もっとも利益追求を卑しいことと考えていた人たちだったこと。 (5)主観的意味といっても、個人的なものではなく、ある程度集合的なものであること。 以上の論点については前章ですでに確認したところ
話をする上で、他分野との用語のすりあわせが必要なのかな、と、こさえた自習メモ。 門外漢にはいろいろ耳慣れぬ表現のオンパレードではあれど、 よく見ればなじみの概念が頻出する書籍 『幸福論』 をベースに。 幸福論remix 目次 【ぜんたいせい 全体性】 何が全体性であるかを先験的に言うことはできない。 「機能の言葉」の集塊から全体性を考える 一七世紀の啓蒙学派: 部分の真理性を積み重ねていくことによって最終的には全体の真理に到達できるとみなす 「全体性を参照する」としても、ジグソーパズルのピース1000個で全体の絵に辿り着くのではなく。 人によっては、たった10のピースがアレゴリカルな星座を「瓦礫のなかに瞬時浮かび上がらせる」 授業に平気で三〇分以上遅れてくるとか(廣松渉先生)、授業に酔っぱらってやってくるとか(小室直樹先生)は、僕らにとっては全く問題じゃなかった。破天荒ぶりの背後にある強烈
6月16日「思想地図」シンポジウム「公共性とエリート主義」@紀伊国屋サザンシアター。パネリストは東浩紀、北田暁大、姜尚中、宮台真司、鈴木謙介。一目瞭然の豪華なメンバーだけど、正直、豪華であるからこそ、適度なところで「しゃんしゃん」になるんじゃないの? と予想しておりました。でも全然そんなことなかったです。きわめてスリリングでした。 宮台さんが繰り返し言及していた「トータリテート(全体性)」の概念は非常に込み入っているので簡単に批判できるものではない、ということは感じました。しかし少なくとも東さんとcharlieの宮台さんに対する批判は、その複雑さを理解した上でなされていたと思います。で、あくまで私の理解のかぎりにおいて(どう考えても理解不足なので、以下に述べることをもって各氏の議論がこうであったと断定してほしくはないのですが)、宮台真司と東浩紀のあいだで交わされた議論について、まとめておき
宮台院ゼミ本『21世紀の現実~社会学の挑戦~』あとがき 【社会学からの全体性の脱落】 ■あらためて言うまでもないことだが、社会学という学問が、フランス革命から第三共和制に至る社会的不透明性の体験──個々人の意思や意識とは独立かつ予想不可能な形で社会が動くという経験──から立ち上がったとき、社会学には「全体性」が要求されていた。 ■社会学が、帝国主義時代の19世紀末に「近代はいかにして可能か」という問題設定を手にした際も、「契約の前契約的な前提」「権力の前権力的な前提」を問う形で、経済学的・政治学的な対象性自体を支える、従来の学問よりも大きな「全体性」を志向した。 ■先に述べたフランス革命以降の「国家暴走」の経験に応接して出現した無政府主義(国家を否定する中間集団主義)やマルクス主義(国家暴力装置論)に対抗して、国家や社会を論じるという伝統的な問題設定も、敵方に劣らない「全体性」への志向へと
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く