「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」 後期ヴィトゲンシュタインでは、「なぜ曖昧な日常会話が成立しているのか」と問われる。ヴィトゲンシュタインは、そこにある集団内で共有化された基底を「言語ゲーム」と呼んだ。「言語ゲーム」は人々に共有された規則が存在し、「言語ゲーム」が成立するのではなく、「規則に従う」という実践の反復によって、「言語ゲーム」は行われている。規則は「言語ゲーム」というある集団内の反復の中で事後的に見いだされていくものでしかないということだ。 世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の「言語ゲーム」であり、書き換えられていく不完全なものでしかないことを示した。 「いかにして私は規則に従うことができるのか」 もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした時、私
『知識の哲学(The Probrem of Knowledge)』 A.J.エイヤー(著), 神野 慧一郎(訳) 白水社、1981 目次 1哲学と知識 哲学の方法 知識に共有の諸特色 知っているとは心が特別な状態にあることなのか 方法の論議―哲学と言語 知っているとは確信する権利をもつことである 2懐疑論と確実性 哲学的懐疑論 確実性の探究 「われ思う、ゆえにわれあり」 疑いに対して免疫のある言明は存在するか 公的な言語使用と私的な言語使用 自分自身の直接経験についての誤りは言葉のうえのものにすぎないのか いかにしてわれわれは知るのか 事実推理についての懐疑―帰納の問題 懐疑論の基本型 懐疑論者に応じるさまざまな方法に関するいくつかの所見 3知覚 物理的対象は直接に知覚されるか 錯覚からの議論 感覚所与を導入する一つの方法 感覚所与の合法性に関して 素朴実在論と知覚の因果説 現象論 物理的
マイケル・ダメットは1925年生まれ、イギリスの哲学者。ダメットの主張は「反実在論」と呼ばれる。彼の着想は従来の実在論―反実在論の論争とは違うところにある。この論争を外的世界についての言明に対してどのような意味論を採用するかをめぐる論争と捉えるのである。膨大な数の著作でなされる議論の相互関係を分り易く解説する。 序 論 ダメットの構想 第一章 背景としてのフレーゲ哲学 1 プラトニズム 2 フレーゲのプラトニズム 3 プラトニズム・言語論的転回・反実在論 第二章 直観主義から反実在論へ 1 ブラウワーの直観主義 2 直観主義論理の形成 3 反実在論の論理は何であるべきか 第三章 論理の改訂はいかにして可能か 1 演繹の正当化 2 全体論的言語観と分子論的言語観 3 全体論はなぜ改訂主義を阻むのか 4 全体論の問題点 第四章 ダメットの直観主義 1 真理概念の認識超越性 2 習得論証 3 表
■ 感想 ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。 本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。 なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ! ■ 『フィクションの哲学』について 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか? 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない) もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。 この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。 しかもかなり大胆な主張してるよね。 この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない? ウォルト
帰納とは、個別の前提から一般的な結論を導く推論のことである。哲学の伝統では演繹との対比において帰納の確実性が問題とされてきたのに対し、本書では帰納を推論の規則と捉えて演繹と切り離し、帰納の信頼性の評価にあたって情報工学における統計的学習理論が有効であることを明らかにする。哲学と認知科学の協働による画期的な知見。 序 第一章 帰納の問題 1 問 題 2 推論と含意 3 反省的均衡 4 反省的均衡についての懸念 5 信頼性 6 今後の先取り 7 結 論 第二章 帰納とVC次元 1 パターン認識 2 背景確率分布 3 分類・推定の規則の信頼性 4 帰納的学習 5 満足のいく枚挙的帰納の条件 6 ポパー 7 総 括 第三章 帰納と「単純性」 1 序 2 経験的誤差の最小化 3 普遍的一致性 4 構造的リスク最小化 5 最小記述長 6 単純性 7 実数変数の推定とカーブフィッティング 8 グッドマン
濃密な読書だった。最後の方になって著者の主張が分かった。そこまでは苦しい読書だった。 amazonに読書記掲載。 ---------------------------------------------- これは記憶についての哲学の本だ。何よりも、著者ハッキングはカナダの有名な科学哲学者である。確かに本書は、精神分析がいかに受け入れられてきたか、受け入れられているかについて詳細な記述に溢れている。しかし本書の目的は精神分析の紹介でも、その受容史でもない。また、精神分析の批判や論難、悪口を主としたものでもない。著者の目的は最後の方になってようやく姿を現す。その目的を理解しないなら、本書を誤読する可能性は高い。 ではハッキングの目的とは何か。それは二点ある。 一つは、精神分析の登場により、記憶が人格の本性を構成するものとなったことを示すことである。それ以前は、魂(soul)が人格の本性だった
アンスコムやデイヴィドソンの行為論を引き継ぎ、難解といわれるデイヴィドソン哲学を再構築する。また議論を一層精緻にして新しい領域への適用を試みる。 まえがき I 基本概念 第1章 出来事という存在者――デイヴィドソニアンの視点から 1.1 存在者としての出来事 1.2 出来事の部分全体学 1.3 出来事・状態・過程 1.4 出来事の名や記述を日常言語でどう表現するかについて 第2章 行為の存在論――アンスコムの同一性テーゼ 2.1 出来事としての行為 2.2 「~によって」関係 第3章 論理形式と統語論 3.1 出来事に関する述語 3.2 副詞的修飾語の論理形式と統語論的特徴 3.3 言語学や文法学のアプローチとの違い 第4章 「対象」と「主体」 4.1 目的語と「対象」 4.2 主語と「主体」 4.3 フィードバックと行為の因果性 第5章 行為の他動性 5.1 他動的な動詞を含む行為文の論
さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。 デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。 わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。 さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。 一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味
前著の付録では社会学的全体論とクワイン=デイヴィドソンの意味・信念の全体論との対応付けと統合という課題が手付かずのまま放り出されていた。 その宿題を果たすべく書きなぐっているメモ。そのおかげでようやくベイジアンとかラムジー哲学とかも齧る覚悟が付いたのだが。 何か間違ったことなど書いていればご教示ください。 おそらく我々はドナルド・デイヴィドソンが遺した「思考、意味、行為の統一理論」の構想を人間社会科学の一般理論の基礎として役立てうるのではないか。 デイヴィドソンの哲学体系は一見、行為論、その延長線上での「非法則的一元論」としての心の哲学と、アルフレッド・タルスキの真理論を基礎とした、真理条件意味論を主軸とした全体論的言語哲学の二側面からなるものとしてわれわれの目に映る。しかしこの両系列は80年代以降、デイヴィドソンが「統一理論」「合理性の科学」と呼ぶより大規模な構想の中に回収され、統合され
序 心の哲学とは、心に関する様々な根底的疑問に答えようとする哲学の分野である。 心の哲学での主要な問題として心身問題が挙げられる。心身問題では心と身体とがお互いにどのような関係にあるかを問う(最近では身体の代わりに脳を持ってくることが多い)。心身問題に対する考え方には大きく分類して一元論と二元論とがある。心身二元論はフランスの哲学者デカルトが支持した説として有名であり、心は身体とは互いに独立して存在しているとする考え方である。それに対する心身一元論にはスピノザの説がある。スピノザは心を決定論的な機械論で説明できるとし、意志や意識も身体の運動も同じ事柄の異なる表れだとした。心身関係には他にもいろいろな説があるが、切りがないので省略(これについてはウィキペディア「心の哲学」の項を参照)。他にも、自由意志論や他我問題などもあるが、これらも基本は心身の一元論と二元論との間の調停が中心問題であること
アメリカの分析哲学者であった故ガレス・エヴァンスは知覚が非概念的内容を持つことを提唱したことで有名なのは知っていたが、そのじつ日本ではめぼしい紹介があまりなくネット上でも日本語の情報があまりなくて困っていたところで、次のリンクの論文をやっと見つけた。 固有名の指示について―社会的規約、対象の同定、記述― 藤川 直也(PDF) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24337/1/%E8%97%A4%E5%B7%9D%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf 捉えがたき明晰さ-知覚内容の非概念性 信原幸弘(PDF) http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/37/37ws/nobuhara-2.pdf ローティが(デイヴィトソンと比べ
「赤がある」と「赤が見える」と*1はどちらが根底となる命題なのだろうか。伝統的な哲学の議論では「赤が見える」が根底であり、「赤がある」はそこに存在が付与されるものであるとされた。しかし、セラーズはこれを否定する。「赤がある」こそが根底であり、「赤が見える」はそれが疑わしいときに用いられるのであると。どういうことだろうか。 実際に言語を用いる場面を考えれば分かる。目の前に何かがある場面で他者に向かって、「赤がある」と言うときと「赤が見える」と言うときとを比べて考えてみればよい。他の人にもそう認めてもらえると分かっていたら普通「赤がある」と言う。「赤が見える」とわざわざ言うのは他の人にそう認めてもらえるかがあやしいときである(そう見えるのは私だけ?)。そしてこれが私だけでなく一般的な人々の言語の用い方だと認めたうえで、言語を習得する場面を考えると良い。他者が目の前に何かがある場面で私に向かって
An Interview with Professor David Armstrong Interviewed by Andrew Chrucky David Armstrong, Professor Emeritus of Philosophy at the University of Sydney, is one of the foremost living philosophers. And if you were to ask me to name a Materialist, without hesitation, I would name him. I think he received this reputation in 1968 when he published A Materialist Theory of the Mind. He has published man
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