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人間関係と内田樹に関するtsuneaki02のブックマーク (32)

  • 内田樹 on Twitter: "ネットの世界は「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報」(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、現実の社会以上に急激に階層が構築されつつあります。この情報階層社会は現実の格差社会よりさらに排他的に階層化する傾向がありそうです。"

    ネットの世界は「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報」(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、現実の社会以上に急激に階層が構築されつつあります。この情報階層社会は現実の格差社会よりさらに排他的に階層化する傾向がありそうです。

    内田樹 on Twitter: "ネットの世界は「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報」(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、現実の社会以上に急激に階層が構築されつつあります。この情報階層社会は現実の格差社会よりさらに排他的に階層化する傾向がありそうです。"
  • バリ島すちゃらか日記 - 内田樹の研究室

    2月17日 久しぶりの休日は、一年ぶりのバリ島バカンス。 ほんとうに休みなく働いている。まさか退職した後にこれほど忙しくなるとは思っていなかった。 4月から「毎日が夏休み」になるかと思っていた。 実際には「毎日が月曜日」という悲惨な暮らしがそれから始まった。 退職したら、半年ほどは完全休養して、旅行にいったり、ふらりと温泉に逗留したり、映画を観たり、レヴィナス論を書き継いだり、カミュの「反抗的人間」の翻訳をしたり、多田先生のイタリアの講習会に行ったりして幸福な人生を過ごす予定だった。 そんなことを夢見て、大学での最後の数年を歯をい縛って耐えたのである。 でも、夢見たことはひとつも、ひとつも実現しなかった。 結局一年間ひたすらディスプレイに向かって締め切りに追われて原稿を書き、講演をし、取材を受け、対談をし、ゲラを直し、「残念ながら、もう新規の仕事を容れる余裕はありません。貴意に添えず申し

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2012/07/12
    「こちらからの質問に対してかならず誠意ある応答がある」「『[…]、情報や情報評価[…](が)信頼できる』[…]人がさまざまな分野に[…]150人いれば、私たちの世界認識はかなり精度の高いものになるだろう。」
  • 年末吉例・2011年の重大ニュース - 内田樹の研究室

    大晦日なので、恒例の「個人的重大ニュース」をまとめることにする。 重要性とは関係なくランダムに思いついたまま列挙する。 (1) 定年退職した 2011年3月末日をもって21年間勤めた神戸女学院大学を定年退職した。ほんとうに楽しい大学での楽しい仕事だった。 だから、「あっというま」に21年経ってしまった。 むかし近所にいた「ジョジョ」ちゃんという女の子が小学校時代の6年間のことをまったく記憶していないとカミングアウトしたことがある。 「あまりに楽しかったので、何も覚えていない」のだそうである。 なるほど。 そういうものかも知れない。 (2) 退職したら暇になると思っていたら、全然ならなかった 4月からは「毎日が夏休み」だと思って、いろいろなことを企画していた。 ひとつは初夏にイタリア旅行に行くこと。 山浩二画伯とふたりで車を借りて、北イタリアをドライブして、きれいな街があったら、そこに泊ま

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2012/04/22
    (既定対応とされるべき対向支援が中枢に嫌われるのは、その)「[…]中枢[…]が『サイズの問題』に[…]鈍感だ[…]」(から。) |「原発事故被災者の共同体単位での『移住』[…]」「[…]計画起案がなされるべ[…]」(し。)
  • 格差と若者の非活動性について - 内田樹の研究室

    ある媒体から若者の労働観についてアンケートを受けた。 みじかい回答を期待していたはずだが、やたら長くなってしまったので、たぶんこのままでは掲載されないだろう。 自分としてはたいせつなことを書いたつもりなので、ここに転載して、諸賢のご叱正を乞うのである。 Q1.現在、世界では、経済格差(世代間格差ではなく、金持ちとそうではない人との格差)や社会への不満に対して、多くの若者たちが声を上げ、デモを起こし、自分たちの意見を社会に訴えようと行動しています。翻って日ではここ数十年、目に見える形での若者の社会的行動はほとんど見られません。これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? それは特に不満を感じていないからなのか、それともそうした行動に対して冷めているのか。ある

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2011/11/19
    「[…]若者たちの集団を組織し、思想的に教化指導し、政治目標を設定できるレベルの知的能力をもつものは『システマティックに社会上位に釣り上げられる』。そのようにして若者の連帯は制度的に不可能にされている」
  • 感情表現について - 内田樹の研究室

    海江田経産相が国会で落涙したことについて、週刊現代から電話取材を受けた。 「どう思いますか?」と訊かれたので、こんなふうに答えた。 どうして「そういうこと」が起きるのか。 理由は二つ考えられる。 一つは「感情表現が抑制できない人が増えている」という解釈。 一つは「感情表現について抑制的である必要はない」という考え方が広く定着したという解釈。 たぶん、その両方の理由によるものだと思う。 感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。 脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。 ミラーニューロンの働きについてはこれまでも何度も書いてきた。 他人がある動作をしているときに、それを見ているものの脳内ではそれと同じ動作を指示するニューロンが発動する。 ミラーニューロンは、行為をするときにも、知覚するときにも動くのであ

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2011/09/13
    「偉い人たち」の多数がその勝者という事態が、リスクです。なぜなら、これは"「過度に感情的であること[…]」で、「[…]人類学的な刷り込み[…]」からの条件反射で「ケア」され、競争に勝つ" "だけ"の戦術だからです。
  • ネット上の発言の劣化について - 内田樹の研究室

    個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。 攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。 これについては、前に「情報の階層化」という論点を提示したことがある。 ちょっと長い話になる。 かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。 讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。 その頃の日人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。 政治的意見にしても、全国紙の社説のどれかに「自分といちばん近いもの」を探し出して、とりあえずそれに同調することができた。 「国論を二分する」というような劇的な国民的亀裂は60年安保から後は見ることができない。 国民のほとんどはは、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2011/08/27
    社会階層の有り様と、その再生産による社会の悪化を、"マス言論は既に瓦解した" という概念を補助にして、検討・啓蒙。感想としては、わたしは昔から幾分マイナー志向なので、マス言論という見方自体が新鮮で感銘。
  • 暴言と知性について - 内田樹の研究室

    復興相が知事たちに対する「暴言」で、就任後わずかで大臣を辞任することになった。 この発言をめぐる報道やネット上の発言を徴して、すこし思うことがあるので、それについて書きたいと思う。 松大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご人も言い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。 Youtube で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」について述べた。 仮に日語を解さない人々がテロップに訳文だけ出た画面を見たら、「どうして、この発言で、大臣が辞任しなければならないのか、よくわからない」という印象を抱いたであろう。 傲慢さが尋常でなかったから、その点には気づいたかもしれないが、「態度が大きい」ということは別に政治家が公務を辞職しなければならないような

    tsuneaki02
    tsuneaki02 2011/07/09
    「論争相手を知的に使い物にならなくすることによって『どちらがボスか』という相対的な優劣関係は確定する。 この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである」
  • 兵站と局所合理性について - 内田樹の研究室

    兵站についてツイッターに昨日少し思うことを書いた。 まず、それを再録しておく。 昨日言い忘れたことのひとつを思い出しました。logistics のこと。兵站学。義は「輸送、宿営、糧、武器、人馬の補給管理、傷病者の処置などに関する軍事科学の一分野」。日陸軍は伝統的に兵站を軽視したことで知られています。 司馬遼太郎が書いていましたが、日露戦争のとき、兵士は数日分の糧しか持たされず前線へ送られたそうです。「あとは現地で調達(強奪)せよ」ということです。伝統的に日陸軍はそうだった。 今回の震災の危機管理を見て、「これは日陸軍だ」と思いました。 「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」という戯れ歌のうちに大日帝国戦争指導部の兵站軽視は反映していますが、同じことが今も続いている。前線の「兵士」の活躍は大きく報じるけれど、それを支える兵站の仕事を高く評価する習慣はない。だから、みんな

  • アブラハムと顔の経験 - 内田樹の研究室

    神戸女学院大学における最後の奨励のための聖句に私が選んだのは『創世記』12:1である。 「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。』」 これは信仰の起源を示す聖句だと私は思う。 信仰はこの言葉に聴き従うものから始まる。 前に書いたとおり、神は「神の言葉に聴き従うもの」の出現を俟ってはじめて神として存在し始める。 もちろん神はそれ以前から存在するのであるけれど、誰もそれを「神」とは呼ばなかったのである。 「私は被造物である」と名乗るものが出現するまでは、「造物主」という概念そのものが存在しない。 神の言葉に聴き従うものを持ってはじめて神は神になる。 神は神の言葉に聴き従うものを必要とする。 全知全能の存在である神は、他には何も必要とせず、ただ「神の言葉に聴き従うもの」だけを必要とするのである。 それゆえ主はアブラムに呼びかける。

  • 特殊な能力について - 内田樹の研究室

    京大の仏文の吉川一義先生にお招きいただいて、京大で講演をする。 吉川先生は東京都立大時代の同僚である。 同僚といっても、こちらは「お茶くみ、コピー取り」の助手であり、先生はプルースト研究者としてすでに一家をなしていたわけで、同列には論じがたいのであるが、まことにフレンドリーな先輩で、ご一緒したのは先生が東京女子大から赴任され、私が神戸女学院大学に去るまでの、二年間だけだったが、たいへん愉快な時間をともに過ごさせていただいた。 先生はフランス文学研究者としては例外的に「社会的常識のある方」である(という書き方をして仏文学者二千人をいきなり怒らせるというあたりに私の「社会的常識のなさ」は露呈しているので、そんな人間から「社会的常識のある方」と言われても「ウチダさんのその判断の蓋然性は誰が担保するのさ」と吉川先生は曇った顔をされるであろうが)。 世界的なレベルの学者でありながら、温厚で配慮の行き

  • 成瀬先生が来る - 内田樹の研究室

    ヨガの成瀬雅春先生と対談。 何度かの対談をまとめて単行にするのである。 対談は今日が最後で、来春にはが出る予定。 成瀬先生たちご一行が合気道のお稽古を見学に来た。 木曜日から「股関節と肩甲骨をがばっと開いて、身体を刃のような一重身にして、深層筋からの力をそのまま作用点に伝える」という身体の使い方を工夫している。 それは先日黒田鉄山先生のDVDで、駒形改心流の型のいくつかを見て、その独特の一重身から、「やっぱ股関節と肩甲骨だわな」と思ったからである。 前に大相撲の一ノ矢さんと『考える人』の「日の身体」で対談したときに、シコが股関節、テッポウが肩甲骨の「開き」のためのものだということを教えていただいた。 相撲の場合は「自分の身体から出せる最大の力を出すためにはどういうふうに身体を使うか」というはっきりした目標がある。 そのための稽古法として、シコと摺り足とテッポウと股割りがある。 この四

  • 毎日新聞心のページ - 内田樹の研究室

    今日の毎日新聞心のページにレヴィナスについてのインタビューが載りました。 毎日新聞お読みでないかたのために、転載しておきます。 -レヴィナスとの出会いを。 三十数年前に修士論文を書いている時、参考文献として読み始めました。でも、何が言いたいのか、当時の私の知的な枠組みではまったく理解できなかった。でも、私が成長するために学ばなければならないたいせつなことを述べていることは直感的にわかった。レヴィナスが理解できるような人間になる、それがそれから後の私の目標になりました。 -レヴィナスから見たユダヤ教とは。 第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。 「人間が人間に対して

  • 『七人の侍』の組織論 - 内田樹の研究室

    どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。 これはなかなか興味深い問いである。 前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。 その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。 どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。 あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。 必ずいる。 全員が標準的なアチーブメントをする集団など

  • リーダビリティについて - 内田樹の研究室

    昨日書いた「エクリチュール」論について、ツイッターの方に、「そういう内田自身の書いている文章のリーダビリティはどうなのか?」という疑問が寄せられた。 それはたして「階層下位に釘付けにされているものにも届くように書かれているのか?」 そういう問いかけはもちろん有効である。 私自身が昨日書いたブログの文章は決して読みやすいものではない(漢字が多いし、英語も使いすぎる)。 けれども、それにもかかわらず、万人に開かれた「不可能な言語を夢見て」書かれているという点において、文化の排他的な蓄積を回避することをめざしている点において、「リーダブルであること」は私の書きものの変わらぬ目標である。 リーダブルな文章というのは「わかりやすい文章」ということとは違う。 「ロジカルな文章」というのとも違う。 ましてや「簡単な言葉が使ってある文章」のことではない。 どれほど難しい術語が用いられていても、どれほど

  • 「あの、ちょっと」な本について

    大学に来てメールボックスをチェックするとき、いちばん頭が痛いのが、「献」である。 自分もずいぶんたくさんの人にを送りつけているので、人のことは言えないのだが、それは友人知人宛てであって、見知らぬ人に送るということはしない。 もちろん、編集者が独自の判断で送るということはある。各紙の書評担当者に送るとか、あるいは一読して激怒、私に筆誅を加えそうな書き手にも送ることがある(そうすれば書名が繰り返しメディア上で言及され、高いパブリシティ効果が期待できるからである。「これほど悪口を言われるなら読んでみたい」というふうに考える読者は決して少なくないのである)。 私だって友人知人から送られてくるはうれしく頂戴する。 困るのは知らない人から送られる自費出版である。 私も自費出版で何冊もを出したことがあるから、市場のニーズとは違うレベルで、それぞれに深い思いと個人的必然性があってを出された事

  • 「大学時報」に書きました - 内田樹の研究室

    「大学時報」という私大連が出している刊行物に次のような文を寄稿しました。活字版は先月出たので、もうネット上で公開しても大丈夫でしょう。 「いつもの話」ですので、その話はもういいよという人はスルーしちゃってください。 選ばれないリスクを負うこと―神戸女学院大学の特殊性について 三大都市圏以外にあり、学年定員800名以下の、女子大学という「三重苦」的な条件下にありながら、これまでのところ定員割れを経験していない大学ということで、学の「成功」事例が「大学時報」に取り上げられることになった。たいへん光栄なことだとは思うけれど、学の諸特徴には、歴史的に形成された条件が深く関与しており、GP 的な事例として一般化することはむずかしいと思われる。あくまで例外的な一事例として諸賢の参考に供したい。 学が最も心がけていることは、「アドミッションポリシーの明確化」である。アドミッションポリシーとは日

  • スーパークールな一夕

    新型インフルエンザ・リスクコミュニケーション・ワークショップというところのシンポジウムにお呼ばれして、感染症の専門のドクターの方たちと「リスク・コミュニケーション」についてセッション。ご一緒したのは、神戸大学の大路剛、国立感染症研究所の具芳明、神戸医療センター中央市民病院の林三千雄、神戸保健所の白井千香、近畿医療福祉大学の勝田吉彰、司会は神戸大学医学部の岩田健太郎の諸先生がた。いや、驚きましたね。みんな「話が早い」ので。かなりの早口で、かつ理路がはっきりしている。「なんだかよくわからないことをごにょごにょ言う」という態度がほとんど生理的に忌避されている。岩田先生は去年の8月に医学書院の仕事ではじめてお会いして、それからパートナーの土井朝子先生ともども何度かご一緒している。「私が会った中でいちばん頭の回転の速い人」のひとりである(横にいて息を潜めていると「クイ~ン」と頭の中で何かが高速回転し

  • 幼児化する男たち - 内田樹の研究室

    『Ane Can』という雑誌の取材を受ける。 『Camcan』のお姉さんヴァージョンである。 このところ女性誌からの取材が多い。 どうしてだろう。 わからない。 インタビュイーの選考は先方のご事情なので、私の与り知らぬことである。 お題は「愛と自立」 う〜む。 「愛をとるか、自立をとるか」でお悩みの20代後半女性にアドバイスを、というご依頼である。 端的には「仕事をとるか、結婚をとるか」ということのようである。 つねづね申し上げているように、これは問題の立て方が間違っている。 仕事結婚も、どちらも人間が他者と取り結ぶさまざまな interdependent なかかわりの一つであり、どちらも人間が生き延びるためには「あったほうがよい」ものである。 「仕事もない、配偶者もいない」というのがワーストで、「おもしろい仕事もあるし、すてきな配偶者もいる」というのがベストであり、その間に無数のグラデ

  • 父親のかなしみ - 内田樹の研究室

    小学館の取材で「家族」についてお話しをする。 もう何度も書いていることだが、親族制度というのは言語や経済活動と同じだけ古く、それを営むことができるという事実が人間の人間性を基礎づけている。 と書くと「ああ、そうですか」と退屈そうなリアクションをする人がいそうだが、人間とサルを分岐するのがその点であるということは、見方を逆にすれば「およそ人間であれば、誰でもできる」ということを意味している。 そこのところを当今の家族論は見落としているのではないか。 家族について論じている言説に触れて、つねに感じることは「そんなむずかしいことが『ふつうの人間』にできるわけないでしょ」ということである。 かつて「アダルト・チルドレン」という言葉がはやったことがあった(死語になってくれたようでうれしい)。 機能不全な家族で育った子どもがその後社会的能力が劣化する現象をいうのだが、そのとき列挙されていた機能不全家族

  • 言葉の力 - 内田樹の研究室

    ツイッターで「言葉の力」と題する原稿を書いたとつぶやいたら、「読みたい」というリクエストがたくさん(三通)あった。 専門的な媒体に書いたので、ふつうの方の眼に触れる機会は少ないであろうから、リクエストにお応えして、ここにその一部を抄録することにする。 力とは外形的数値的に表示できるものではなく、ほんらいは内在的・潜勢的な資質であろうという話のあとに、こんなふうに続く。 たとえば「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。 つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのである。だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測することの望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。 当然ながら、彼ら