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  • 約束違反に激怒したのは家康の方だった | 歴史人

    3月26日(日)放送の『どうする家康』第12回「氏真」では、懸川城に立てこもる今川氏真(いまがわうじざね/溝端淳平)と対決する徳川家康(とくがわいえやす/松潤)の様子が描かれた。追い詰められた氏真を待っていたのは、意外な結末だった。 戦国武将としての最後を迎えた今川氏真 静岡県掛川市の掛川城天守。今川氏の遠江進出の橋頭堡(きょうとうほ)として、朝比奈泰煕が築城したと伝わる。今川氏真が退去した後は、徳川家康の重臣である石川家成が城代として入城した。 武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)の呼びかけに応じる形で、武田・徳川両軍による駿河(するが)・遠江(とおとうみ)侵攻が始まった。信玄の猛攻を前に、今川家の家臣たちは次々に武田軍に寝返り、今川氏真の進退は極まった。 一方、引間城を拠点に遠江制圧を進めていた徳川家康のもとに、今川館から姿をくらました氏真が懸川(かけがわ)城に潜んでいるとの情報が入る

    約束違反に激怒したのは家康の方だった | 歴史人
  • 現在に転生した天下人・ヒデヨシくんが家康主人公の来年の大河ドラマ「どうする家康」について思うこと⁉ | 歴史人

    現在に転生した天下人・ヒデヨシくんが家康主人公の来年の大河ドラマ「どうする家康」について思うこと⁉ 三大天下人が“今”を斬る【第十一回】 ノブナガくん、ヒデヨシくん、イエヤスくん。かつて戦国乱世を制覇し、天下人となった3人の戦国武将が“現代に蘇り、時勢について語ったら”……。はたしてどんなことを語るのだろうか? 今回はヒデヨシくんにいよいよはじまる大河ドラマ「どうする家康」について思うところを語ってもらった。 ■徳川家康主人公の大河ドラマは40年ぶり ヒデヨシくん 気に入らぬ、気にぃ入らぬぅぅぅ~。 お歴 いったい、どうしたんですか。 ヒデヨシくん 近頃、よくイエヤス殿の顔が目について。どうも気に入らぬ。すべて斬り捨てたい!! お歴 来年の大河ドラマは「どうする家康」で、イエヤスさんが主人公ですからね。徳川家康の地元の岡崎や浜松、静岡などでは盛り上がってきているみたいですよ。 ヒデヨシくん

    現在に転生した天下人・ヒデヨシくんが家康主人公の来年の大河ドラマ「どうする家康」について思うこと⁉ | 歴史人
  • 源氏の英雄の血を継ぐ足利氏が守った名城「西尾城」【愛知県西尾市】 | 歴史人

    戦国時代、幾多の武将たちが争った。その基地となったのは、もちろん城であり、全国は多くの城が存在。今はその形跡を残すものもあれば、わずかな痕跡しか辿れない城もある。今回は知られざる愛知の名城「西尾城」の現在と歴史に迫る! ■戦国乱世を耐え抜き、六万石の城下町の威容を今に伝える城跡 西尾城は、愛知県西尾市に位置しており、矢作川と矢作古川に挟まれた碧海台地の先端に築かれているため、平山城に分類される。かつては、城下町を堀と土塁で囲む惣構(そうがまえ)が設けられており、広大な城域を誇っていた。しかし、近代化のなかで市街地化しており、現在は、丸・二の丸を中心とした一部分が、西尾市立歴史公園として整備されている。 西尾城の歴史は古く、鎌倉時代の初期に三河守護となった足利義氏(あしかがよしうじ)が築いた西条城に始まるともいう。ただし、この西条城は、現在の西尾城とは別な場所であるという見解もあり、西尾城

    源氏の英雄の血を継ぐ足利氏が守った名城「西尾城」【愛知県西尾市】 | 歴史人
  • 鎌倉幕府再興を志した北条時行の生存説と系譜の謎 | 歴史人

    北条時行の父・高時は権力に溺れた遊興の人として記述が残る。新田義貞らの鎌倉攻めにより、鎌倉の腹切やぐらで多くの一族がともに自害している。「相模守北条高時」芳年武者旡類/都立中央図書館蔵 北条時行(ほうじょうときゆき)という名を聞いたことがあるだろうか? 中世史に詳しい御仁はともあれ、一般的には、馴染みの薄い人物というべきかもしれない。鎌倉幕府の事実上の支配者であり、第14代執権であった北条氏得宗家当主・北条高時(ほうじょうたかとき)、その次男である。 鎌倉幕府が足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らによって滅ぼされたのは、1333年のこと。高時をはじめ、総勢870人もの北条一族やその家臣たちが共に自害したといわれる。 その敗戦の混乱に紛れて、幼い時行は家臣・諏訪一族に守られながら、鎌倉からの脱出に成功。その後、父を死に追いやった尊氏を仇とばかりに戦いを挑み続けていったの

  • 小西行長(西軍)─加藤清正との確執がこの戦いに私を導いた…… | 歴史人

    様々な想いを抱えて、数多の戦国武将が命を懸けた関ヶ原合戦──。その関ヶ原合戦にはこれまであまり知られていない武将も参戦した。ここではそれらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。今回は、豊臣秀吉の子飼いの武将として知られ、同じく子飼い武将・加藤清正へのライバル心をむき出しに戦った小西行長に迫る。 小西行長 こにし・ゆきなが 所領/肥後・宇土約20万石 動員兵力/約4,000人(推定) 布陣場所/北国街道と東山道(中山道)の中間点にある北天馬山 合戦での動向/奮戦するも西軍諸隊が総崩れした後、敗走 戦後の処遇/改易 私が西軍に身を寄せたのは、決して内府公(徳川家康)が嫌いだったからでも、内府公と馬が合わなかったからでもない。むしろ、私と内府公とは、太閤殿下(豊臣秀吉)の下で手を携え合って様々な仕事をこなしてきた。私自身は内府公の存在について「得難い人物

  • 負けは覚悟の上。義に殉じた知られざる英傑・平塚為広(西軍) | 歴史人

    関ヶ原合戦はあまたの武将たちが全国から募り、日史上でも最大級の合戦といっても過言ではない──。その関ヶ原合戦にはこれまであまり知られていない武将も参戦した。ここではそれらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。今回は、秀吉への恩義を想い、忠義を貫いた平塚為広に迫る。 儂(わし)は指揮官の大谷刑部少輔(大谷吉継/おおたによしつぐ)殿の後ろ姿を見ていた。顔を紺色の絹の袋に包み、両眼だけを見せている。その両眼も既に視力は無い筈だった。兜は被らずに朱漆(しゅうるし)の面頬(めんぽお)をしているだけであった。あの業病に掛かる前ならば、さぞかし紺の覆面と朱の頬当ては鮮やかに似合ったであろう。 太閤殿下(豊臣秀吉)が「刑部に100万の兵を与えて思うままに戦さの指揮を取らせてみたい」と申されたという刑部殿だが、今ここにいる刑部殿は僅か越前・敦賀5万石に過ぎず、率い

  • 豊臣秀吉に尽くしながら、関ヶ原では徳川方に与みした寺沢広高(東軍) | 歴史人

    様々な武将が参戦した関ヶ原合戦──。今では取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。ここでは、秀吉に世話になりながら、事情により、家康軍に付いた寺沢広高に迫る。 寺沢広高 てらさわ・ひろたか 所領/唐津8.3万石、 動員兵力/1,500人(推定) 布陣場所/不明 合戦での動向/福島正則、藤堂高虎ら主力軍の予備隊として活躍 戦後の処遇/領に加え天草に2万石加増 拙者は、父・寺沢広政(てらさわひろまさ)の子として尾張国に生まれたが、その縁もあって父子ともに太閤殿下(豊臣秀吉)に仕えた。天正20年(1592)の、あの唐武陣(朝鮮出兵)では朝鮮に渡ろうという殿下の接待役を肥前・名護屋城にて務めた。それにしても唐武陣での同僚たちの戦いぶりは、海のこちら側にも毎日のように伝えられて来たっけ。拙者も、

  • 北条氏分裂を決定づけた「畠山重忠の乱」 | 歴史人

    9月18日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第36回「武士の鑑」では、執権・北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)と御家人・畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)の対決が描かれた。自身の父と友人が対立するという、双方の板挟みとなった北条義時(小栗旬)は、非情な決断を迫られることになる。 神奈川県横浜市にある「畠山重忠公終焉の地」の碑。周辺には重忠の首を祀った首塚や、首洗いの井戸、重忠の敗死を知って自害したが駕籠ごと埋葬されたという駕籠塚など、関連する史跡が点在している。 御家人たちの不評を買った誅殺 3代目鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)の下文を入手した執権・北条時政は、畠山重忠討伐に動き出す。 実朝以下、多くの御家人が重忠の謀反に疑念を覚えるなか、重忠の友人で時政の子・北条義時(よしとき/小栗旬)は自ら総大将に志願。最後まで停戦の望みを捨てない覚悟で、戦場へ向かった。

    北条氏分裂を決定づけた「畠山重忠の乱」 | 歴史人
  • 豊臣政権屈指の吏僚として、石田三成の盟友として西軍に殉じた長束正家(西軍) | 歴史人

    様々な武将が参戦した関ヶ原合戦──。今では取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカスし、なぜ東軍(西軍)に加わったのか、合戦での役割はどんなものであったのか、さらには戦後の動向など、その武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。ここでは、両陣営に振り回されながら、西軍に殉じた長束正家に迫る。 何故だ。なぜ内府(徳川家康)はあのような危険な場所に陣を構えたのだ。不思議でならぬ。あの桃配山(ももくばりやま)というのは、たかだか3町余り(実高は約380㍍)に過ぎぬ。内府にとって居心地のよい場所ではなかろうに。我ら西軍の約3万(実数は2万8千960)が陣取る南宮山(なんぐうさん)の西麓の小高い隆起のような場所に陣取るとは。何をするにも「石橋を叩いてなお渡らない」とまでいわれた慎重居士の内府らしくない陣の構えようではないか。何かある。何か

  • 北条義時の突然死の陰で囁かれる継室・伊賀の方による毒殺説 | 歴史人

    2代執権となった北条義時が、正・姫の前を離縁した後、継室として迎え入れたのが、関東の有力豪族の娘・伊賀の方であった。伊賀の方はその後、我が子・政村を執権とするよう画策。そればかりか、夫・義時まで毒殺したといわれることもある。それはどういった理由によるのだろうか? 夫に実家を滅ぼされた正室・姫の前の無念 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における北条義時(ほうじょうよしとき)のといえば、新垣結衣さんが演じた八重姫(やえひめ)が何といってもよく知られるところである。その実体は、正室であった姫の前と、側室・阿波局(あわのつぼね)をミックスして創作された人物像であることも、よく知られるところだ。 ただし、ここでは史実としての義時ののことについて見ていくことにしたい。義時には、4人のがいたことが知られている。正の姫の前と、継室(けいしつ)としての伊賀の方に加え、義時にとって最初の子・泰時(やすと

  • 徳川家康を勝たせて国持大名になりたかった「山内一豊」(東軍) | 歴史人

    天下分け目の大戦・関ヶ原合戦には、取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカスし、なぜ東軍(西軍)に加わったのか、合戦での役割はどんなものであったのか、さらには戦後の動向など、その武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。 人間はこうも冷静になれるものなのか。もう戦さが始まろうというのに。しかも、この戦さは長い戦国時代の終わりの戦さになろう。たとえ、我が東軍が勝っても、万が一、西軍が勝つようなことがあったとしても、この戦さは、この国から殺し合いがなくなる最後の戦さであろうな。 儂は織田信長公に仕える前から、そして仕えた後も、常にこの手に鑓を握って戦場に出た。能寺の変後は、かつては同僚であった太閤(秀吉)に従い、戦った。賤ヶ岳(しずがたけ)しかり、小牧(こまき)・長久手(ながくて)しかり。それらの功が、最初の領地、若狭・高浜の2万石だ

    徳川家康を勝たせて国持大名になりたかった「山内一豊」(東軍) | 歴史人
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