テレビ、新聞、雑誌、そして評論家や有識者が「増税の可否」を論じている.でも、あなたたちが戦後一貫して言ってきたことをこんなに簡単に放棄して良いのか? 戦後教育を受けた私は、若い頃から「選挙に行け、選挙に行け」とうるさく言われた.一時は、選挙に行かなければ「悪い奴」と言われたこともあった。 そんなとき、「なぜ、選挙に行くの?」などと質問でもしたら罵倒されたものだ。「民主主義のもっとも大切なことは「清き一票」だ。その権利を行使しないのは国民じゃない!」などと言われた.とくに、「選挙に行け」と国民を叱ったのはテレビ、新聞だったし、「選挙に行かないのは政治意識が低い証拠だ」と非難したのは評論家、知識人などであった。 ・・・・・・・・・ でも、なんで投票に行かなければならないのだ?? 2009年に国政選挙に行って、公約を信じ、マニフェストに書いてあることが実施されると信じて民主党の投票した人の権利は
「女、子供に敵は何もしないから君たちは最後は手を上げて出るんだぞ」。沖縄戦の組織的戦闘が終結したといわれる1945年6月23日の直前、当時の島田叡(あきら)知事=兵庫県出身=から掛けられた言葉を胸に、県警察部職員だった山里和枝さん(85)=うるま市=は戦後67年間を生きてきた。島田知事はその後、沖縄本島南部・摩文仁(まぶに)の軍司令部壕(ごう)に向かい、消息を絶った。語り部として戦争の悲惨さを訴え続ける山里さんは言う。「知事は私に『絶対に生きろ』と言ったんです」 45年5月、沖縄守備軍司令部が置かれた首里にほど近い県庁壕に、海軍から県庁職員を看護要員として派遣するよう要請があった。県警察部職員だった山里さんはすぐに応じた。「どうせ死ぬ命。少しでも役に立って死にたいと思った」 だが、たどり着いた海軍壕(豊見城=とみぐすく=市)は「地獄」だった。病棟には薬も包帯もない。治療どころではなく、壕外
東京電力の福島第1原発事故調査委員会が公表した最終報告書に対し、東電柏崎刈羽原発がある新潟県の泉田裕彦知事は21日、記者会見で「何のために検証したのか聞いてみたい」と不満を述べた。 報道の範囲でしか把握していないと断ったうえで「検証するというのは『事故があってここが問題だったからこうしますよ』という未来へのメッセージのはずだがそうなっていないようだ」と述べた。 原発の必要性は「福島の検証をしないと軽々に判断できない」との見解を示し、柏崎刈羽原発は「再稼働の議論は、手続きも含めてしない」と話した。
われわれが避けねばならぬのは、「理解するよう努める」ということの罠である。つまり、低線量被曝の確率的な健康被害が決着のつかぬ議論となる主要な理由は、誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある。そういった態度の紋切り型の一つに従えば、「何が起きているかを説明しようとすれば、少なくとも広島長崎のLSS調査の統計的な手法とその解釈を理解し、測定誤差や精度の理論、内部被曝の臓器モデルなどあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが、放射線の健康に対する影響の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば、健康被害に注がれる疫学的眼差し、つまりは集団レベルで記述された健康被害に対して観察者(同時に被害者)という個人が保っている距離を維持することに貢献するのである。言い換えるなら、福島原発の事故以後の出来事が証明しているのは、「理解することは許すことだ」とい
【寄稿】 母を辱めるな 徐京植 彼は侮られ、人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われるもののように彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。誠に彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。しかるに我々は思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて我々に平安を与え、その打たれた傷により我々は癒されたのだ。(略)彼は暴虐な裁きによって取り去られた。その世の人のうち誰が思ったであろうか。彼はわが民の咎(とがめ)のために打たれて、生けるものの地から絶たれたのだと。―「イザヤ書」53章 私の母がこの世を去る時、息子(私にとっては兄)が二人、政治犯として韓国の監獄に囚われていた。独裁者の死によってかすかに芽生えた釈放の期待は、別の独裁者の登場によって摘み取られた。光州に戒厳軍
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