オットー・ヨハン・アントン・スコルツェニー(Otto Johann Anton Skorzeny、1908年6月12日 - 1975年7月6日)は、ドイツの軍人、武装親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。 コマンド部隊の指揮官として様々な奇襲・極秘作戦に従事したことから、「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれた[1]。 生涯[編集] 生い立ち[編集] ウィーンの中産階級の家庭に生まれた。身長192cm、体重90kgの偉丈夫でウィーン工科大学在学時にはフェンシング選手としてウィーンで名が知られ、15回の個人的な決闘(学生決闘(メンズーア))を行い、10回目で頬に大きな傷を残した[2]。 1931年にオーストリア・ナチ党に加わり、すぐに突撃隊に入隊した。当初から指導者としての適性を示し、1938年3月12日のドイツのオーストリア合邦の際には、併合協定調印を拒んだヴィルヘルム・ミクラス大統領をナチスの
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