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天文と人物に関するwhaleboneのブックマーク (31)

  • 「白河天体観測所」-50年本当に楽しかったのだろうと : しない・させない・させられない

    私が久しぶりに購入したは藤井旭さんの書いた「白河天体観測所」です。「日中に星の美しさを伝えた,藤井旭と星仲間たちの天文台」という副題がついています。 1966年に創刊されて50周年を迎えた「月刊天文ガイド」は,パソコンもスマホもなく、まだ日が貧しかったころの少年たちが夢を膨らませるのに十分な雑誌でした。そうした少年たちより少し年上の先輩たちの活躍や話題がこの雑誌を作り上げ,日のアマチュア天文家に天体写真ブーム巻き起こしたのです。 そのなかには池谷薫さんとか関勉さんのように彗星を発見したりする人や富田弘一郎さんのような専門家がいたのですが,そういう人たちとは別に,一見,学問とか業績とは無縁のアマチュア天文家のリーダー的な存在を通したのが,天体写真家の藤井旭さんでした。 藤井旭さんは1941年の生まれ。子供のころに戦後で何もないので星ばかり見ていた事から星が好きになったのだそうです。山

    「白河天体観測所」-50年本当に楽しかったのだろうと : しない・させない・させられない
  • 住職の磨いた鏡 1/4 ~笹川重雄氏の遺品~| 星夜の逸品 -児玉光義-|ドームなび

  • 木辺宣慈 - Wikipedia

    木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)[1]、1912年4月1日 - 1990年5月2日)は、日の浄土真宗の僧侶、真宗木辺派21代門主。光学技術者。レンズ磨きの名人として知られ、「レンズ和尚」と呼ばれた。父親は木辺孝慈、母親は醍醐忠敬の娘・静子[1]。長姉の彰子は子爵藤谷為寛の二男・為隆の[1]。次姉の弘子は、真宗誠照寺派の28世法主、二条秀淳に嫁いだ。父方祖父は大谷光尊、父方伯父叔母に大谷光瑞、大谷尊由、九条武子ら、母方伯父に醍醐忠重がいる。

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    whalebone 2021/02/23
    『レンズ磨きの名人として知られ、「レンズ和尚」と呼ばれた。』
  • https://www.nro.nao.ac.jp/~kt/html/kaifu2/WatashiToKaifuSan2.pdf

  • 古在由秀 - Wikipedia

    古在 由秀(こざい よしひで、1928年(昭和3年)4月1日 - 2018年(平成30年)2月5日)は、日の天文学者[1](天体力学)。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は、理学博士(東京大学・1958年)。東京大学名誉教授、国立天文台名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、群馬県立ぐんま天文台名誉台長[2]、日学士院会員、文化功労者[3]。 東京大学附属東京天文台教授、東京大学附属東京天文台台長(第12代)、国立天文台台長(初代)[4]、国際天文学連合会長、群馬県立ぐんま天文台台長などを歴任した。 来歴[編集] 生い立ち[編集] 古在由正・澄江夫の長男として東京府北豊島郡巣鴨町駒込(現・東京都豊島区駒込)に生まれた[1][5][6][7]。 1940年、東京府立第十四中学校(後の東京都立石神井中学校、現・東京都立石神井高等学校)に入学[8]。1945年、旧制第一高等学校理科に入学[8]

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  • 西村太冲index

  • ヒュパティア - Wikipedia

    ヒュパティア(古代ギリシャ語: Ὑπατία, ラテン文字転写: Hypatia, 350年から370年頃 - 415年3月)は、東ローマ時代のエジプトで活動したギリシャ系の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者。ハイパティアともヒパティアとも呼ばれる。 『ヒュパティア』(チャールズ・ウィリアム・ミッチェル画) アレクサンドリアのテオンの娘として生まれ、新プラトン主義の創始者プロティノスと新プラトン主義のシリアでの分派の創設者イアンブリコスの2人の学統を継いだ。400年頃、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学の学校長に就任し、プラトンやアリストテレスの思想について講義を行った。当時のヒュパティアとの書簡、例えば、シュネシオス[注 1]がヒュパティア宛に出した書簡が7通現存している。 ヒュパティアは様々な書物に対して註解を著した。後世の『スーダ辞典』によれば、ディオファントスが著した『算術』

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    whalebone 2015/08/23
    『真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです』
  • 連載 星夜の逸品 -児玉光義-|ドームなび

  • 池内了 - Wikipedia

    『宇宙の大構造と銀河』(丸善 1988年) 『宇宙のかたちをさぐる』(岩波ジュニア新書 1988年) 『泡宇宙論』(海鳴社 1988年)(ハヤカワ文庫 1995年) 『宇宙進化の構図』(大月書店 科学全書 1989年) 『激変天体論・ダークマターを否定する』(学習研究社 最新科学論シリーズ16 1991年) 『現代の宇宙像・銀河・銀河星団はいかに造られたか』(培風館 1991年) 『宇宙からみた自然』(新日出版社 1991年) 『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』1~4(岩波書店 1992年) 『現代宇宙論を読む』(北海道大学図書刊行会 1992年) 『宇宙をあやつるダークマター』(岩波書店 科学ライブラリー 1993年) 『転回の時代に』(岩波書店 科学ライブラリー 1996年) 『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書 1996年) 『宇宙学者が「読む」』(田畑書店 1996年)

  • 国立国会図書館デジタルコレクション

  • 山本一清 - Wikipedia

    一清(やまもと いっせい、1889年(明治22年)5月27日 - 1959年(昭和34年)1月16日)は、滋賀県出身の天文学者。滋賀県出身者として最初の天文学者・理学博士(博士登録番号227番、天文学専攻としては国内8人目の理学博士)。 山一清は1889年(明治22年)5月27日、滋賀県栗太郡上田上村桐生(現:大津市桐生1丁目)に生まれる。山家は代々医療を生業とし名字帯刀を許されていた。父美清(祖父清之進の名を継ぐ。また、山椋亭とも称した)は野洲郡津田家から養嗣子として山家に入り、教師として児童教育に尽力した。山一清の命名は祖父山清之進が行い、橘良基治世之要の「難有百術、不如一清」より二字が用いられた。祖父山清之進は県会議員を勤めると共に漢詩や和歌の作者としても名を知られており、巌谷修(巖谷一六)とも書を通じ親交があった[1]。 山は1902年(明治35年)膳所中学に

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  • 我が国はじめての彗星発見者

  • 林忠四郎の全仕事(佐藤 文隆 編)| 京都大学学術出版会

    恒星の進化や初期宇宙における元素の起源の研究で知られ、「ハヤシ・フェイズ」にその名を残す林忠四郎。林自身が晩年に残した自叙伝は、20世紀半ば以降の理論物理学の発展の経緯を、社会的文脈も含め、生き生きと伝える。また和文の論考や貴重な講演・対談・インタヴューの記録、門下生達による寄稿集等を通じて、林忠四郎の研究と教育の全仕事を伝える。 林 忠四郎(はやし ちゅうしろう) 1920年,京都市に生まれる。東京帝国大学理学部物理学科卒業。徴兵期を経て戦後は京都帝国大学理学部湯川秀樹研究室にて1949年まで副手,助手をつとめ,ガモフのビッグバン宇宙論における元素形成の理論を訂正して注目される。浪速大学工学部助教授を経て,1954年から1984年まで京都大学理学部にて助教授,教授。恒星の進化,太陽系の起源などの研究により,宇宙物理学の発展に貢献した。京都新聞文化賞(1959年),エディントンメダル(19

    林忠四郎の全仕事(佐藤 文隆 編)| 京都大学学術出版会
  • 司書の出番 » 「専門家に資料を学ぶ 天体☆」研修報告

    2013年は2月のロシアの隕石落下に始まり、パンスターズ彗星やアイソン彗星など天文現象が目白押しです。最近では宇宙に興味をもつ女性を指す「宙ガール」という造語がうまれるなど人々の天文への関心が高まってきています。 県立川崎図書館では11月に「専門家に資料を学ぶ」を開催しました。「専門家に資料を学ぶ」とは館内整理日に、当館の蔵書や専門分野の資料について専門家の視点から評価やアドバイスをしていただく職員研修のことです。 通算で4回目となる今回のテーマは「天文」。講師に「かわさき宙と緑の科学館」の学芸員の国司真さんを迎え、当館の天文に関する資料をご覧いただい後、その印象や資料の紹介、アドバイスなどをお話いただきました。 まずは当館が所蔵する天文に関する資料のチェックです。先生は普段から図書館をよく利用するそうで、書架を見る姿はなれたものです。 「このの○○先生は××にお勤めで、専門は□□~」と

    司書の出番 » 「専門家に資料を学ぶ 天体☆」研修報告
    whalebone
    whalebone 2014/02/06
    『現在とは違うものも「間違いではなくその時代の答え」』
  • 天文博物館五島プラネタリウム - Wikipedia

    天文博物館五島プラネタリウム(てんもんはくぶつかんごとうプラネタリウム)は、東京都渋谷区の渋谷駅前、東急文化会館(2003年解体)8階にあった天文博物館。 館名の「五島」は開館当時の東京急行電鉄会長、五島慶太の姓にちなむ。2001年3月に閉館し、館の資料は渋谷区教育委員会が所管する「渋谷区五島プラネタリウム天文資料」に引き継がれた(投影機も同所に解体保存された後、現在は渋谷区文化総合センター大和田で展示保存されている)。当時としては珍しい民間運営のプラネタリウムだった。 五島プラネタリウムで使用されていたプラネタリウム投影機(渋谷区文化総合センター大和田で展示保存。2012年11月撮影) プラネタリウムは、「東急文化会館に文化施設が欲しい」という五島の思いと「戦後の東京にプラネタリウムを!」という天文・博物館関係者の思いから生まれた[1]。 五島側の事情 当時地味で人が素通りする状態であ

    天文博物館五島プラネタリウム - Wikipedia
  • 【訃報】旧五島プラネタリウム館長 村山定男氏/17日に「お別れの会」

    【2013年8月13日 アストロアーツ/星ナビ編集部】 8月14日更新 元・五島プラネタリウム館長で天文学者の村山定男(むらやま さだお)さんが、13日正午に死去されました。享年89歳。 お通夜・告別式・お別れの会の情報を追記しました 村山定男さんは1924年4月9日東京生まれ。望遠鏡による火星観測や、隕石の研究などを専門とする天文学者として国立科学博物館理化学研究部長を務め、テレビ出演や講演会、天文学解説書執筆などを通して天文普及活動に活躍されました。 1957年4月、天文博物館五島プラネタリウム設立当初から学芸委員会に参画し、2001年3月の同館閉館の際には、多くのファンに惜しまれつつ44年の歴史に館長として幕を引きました。その後も、五島プラネタリウムのプラネタリウム投影機の展示保存活動に実行委員長として尽力されました。 また、季刊天文誌「星の手帖」編集委員、東亜天文学会会長、ダイニッ

  • JAXA|中川翔子 宇宙に行けるなら片道切符でもいい!

    中川翔子(なかがわしょうこ) 1985年5月5日生まれ。東京都出身。2002年にミス週刊少年マガジンを受賞し芸能界デビューして以来、数々のテレビ番組に出演。趣味はパソコンでイラストを描くこと、読書ゲーム映画、アニメ、コスプレなど。特技はヌンチャク。 デビュー10周年となる2012年には、国内だけでなく初のアジアツアーを開催。 寺田:JAXAについてどのようなイメージをお持ちですか? 中川:JAXAは、いろんなことを開発して、いろんなことを切り開いてくれるので、日の宝だと思っています。人類の希望・期待をすべて背負った、人類の歴史の最先端にいるのがJAXAだと思っていますので、JAXAで働く人は私たちのヒーローですね。JAXAには期待しまくりです! 以前出演した番組で筑波宇宙センターを取材させていただいたことがあって、敷地が広大で緑が多いのにはビックリしました。その時に、宇宙飛行士の野口

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    whalebone 2013/01/31
    『怖いんですが、とても美しいんです』『私の先祖で天文民俗学者の野尻抱影という人が』
  • 天体機器のカタログ

    whalebone
    whalebone 2012/09/28
    『小島修輔氏は日本光学から五藤光学へ移り、その後 独立し、アストロ・ サービス・センターを設立、その後 現アストロ光学を創設』
  • 森本さんの宇宙 (application/pdf オブジェクト)

  • 法月惣次郎 - Wikipedia

    鉄工所を経営するかたわら、日初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日の天文学を支えた。「日には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。 1912年(明治45年)1月、志太郡和田村(現在は焼津市)で生まれる。 1926年(大正15年)3月、和田村立和田尋常高等小学校高等科卒業。 同年4月、松永重兵衛氏(旧焼津町鍛冶屋)に丁稚奉公に入る。(14歳) 1933年(昭和8年)4月、谷内村鉄工(静岡市木工機