タグ

ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (18)

  • 文脈的距離と構造的距離――立ち絵演出の二重性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月25日更新。 ギャルゲー一般の立ち絵演出の起源において、立ち絵はキャラを表し、背景は状況を表す書割だった。キャラとの関係性を重視するギャルゲーにおいて、重視されるべきはキャラとの関係であり、キャラがどのように振舞うかであった。まるで中世の宗教画のように、物語の文脈の中で重要なキャラは前景化し、そうでないキャラは後景化/フェードアウトする。そのさらにうしろに、書割としての背景が存在する。そのような形式が、かなり長期間用いられてきた。これを究極的に推し進めると、Liar-Soft「Forest」のように、書割とキャラが完全に分離した演出手法となる。 しかしながら、やがて立ち絵演出の中にも遠近法が――物理的な意味で近くにいるキャラは前景化し、遠くにいるキャラは後景化するという方法論が部分的にも用いられるようになる。これは、基的にはプレイヤーの「視点」がひとつに――そのアバターたる

    文脈的距離と構造的距離――立ち絵演出の二重性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2010/02/03
  • 中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月22日更新。 「中二病と云う言葉が使われる度に、世界から大切なものがひとつ消えていく」 ――元長柾木―― 中二病とか云って現代伝奇のテンプレ要素が否定されて行く時代に、ぼくたちはどうやって現代伝奇を書けばいいのか問題。 中二病同士が己の尊厳をかけて邪気眼バトルする話が現代伝奇の来の姿であり、いまでも売れ線の作品に多く見受けられるが、その想像力はすでにネタ化され、アイロニカルに語られるものになりつつある。ここでも使っている「中二病」あるいは「邪気眼」といった概念によってネタ化された現代伝奇の想像力は、ある種の行き詰まりを見せていると云えるのではないか。 しかしなぜこのようなアイロニカルな変容を、現代伝奇の想像力は経てきたのだろうか。そこには「時代的感受性のアイロニカルな変遷」というものが関係しているように思われる。具体的にはどういうことか。 まあこれはいつもの後期近代論とポス

    中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2010/01/23
  • エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    今期の「涼宮ハルヒの憂」においては、原作では1話で済んだ「エンドレスエイト」をループ構造の作品として延々繰り返しているのだが、これはいわゆる「ループもの」の作品とかなり違う文脈で描かれている珍しい例なので、少し論じてみたい。 一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない。むしろ「ループしている」という状況を、さまざまなベクトルから描きつつ一のシリアルなストーリーラインに落とし込むか、ループという状況によって多数化された物語の上にメタフィクション構造を積み上げ、そのメタ部分をメインラインとして、やはりシリアルなストーリーラインが組まれることが多い。 たとえば、前者の代表的な作品である「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(正確にはその前半部)においては、登場人物たちそれぞれがループの奇妙さに気付き、それを打破しようとしてさらに混乱していくとい

    エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2009/08/21
  • 両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    今旬の話題であるヱヴァと、それが前提とした「THE END OF EVANGELION」(以下EoE)と、このふたつに近縁するジャンルであるところの美少女ゲームがそれぞれ描き出す「他者性」について、それぞれを絡めながら、少し語ってみたい。 美少女ゲームにおける他者とは? 美少女ゲームにおける他者は大体において都合のいい他者であり、自己愛の鏡みたいなところがあるというのは古典的な批判だが、割と的を射ている。というか、それはもはやある種の共通認識だろう。だからこそ、現状における美少女ゲームの倫理的/作劇的問題は、そうしたものであるからこそ表現し、達成しうる何がしかがあるということに移行している。 では、それはどのようなものだろうか。 美少女ゲームにおける他者とは、自己愛が投影された「都合がいい他者」――すなわち他者性と自己愛との間にある両価的他者であるからこそ、異質でありながら共感性を得られる

    両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2009/08/21
  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2009/02/09
  • 伊藤計劃とサイバーパンク――現代SFにおける生の意味論的根拠に関するメモ―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    昨晩、久しぶりに東浩紀「郵便的不安たち#」を読み直していたら、気に掛かるフレーズがあった。 ポストモダンにおいては、人間と世界の間にはいかなる意味的なつながりも見いだせない。人間はただ無意味に生き、世界もまた無意味に動いている。探偵小説がその無意味な人間たちを描く文学として発達してきたのならば、今後のSFのひとつの方向は、逆に、その無意味な世界の構造を淡々と描く文学ということになるだろう。その文学には、科学的な知識も、未来予測も、政治問題も、ジェンダー・ポリティックスも、もしかしたら、宇宙船やサイバースペースまで登場するかもしれない。しかし、ただひとつ、人間の生きる意味だけが存在しないのだ。 ――東浩紀「探偵小説の世紀、SFの世紀」(2001)より抜粋―― それなんて伊藤計劃、という話なのだが。 「探偵小説の世紀、SFの世紀」という小論に関しては基的にかなり疑念があるので*1、論旨自体に

    伊藤計劃とサイバーパンク――現代SFにおける生の意味論的根拠に関するメモ―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 飛べ、ヨッサリアン!――派遣村に集う人々の生の目的論的意味論争についての所感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    みちアキ氏のエントリ「派遣村に流れ着いた人が最初に考えるべきだった、たったひとつのこと」について。 ぼくが云いたかったことの大半は安眠練炭氏のエントリ「生きるということは手段ではない」で語られているのだが、少し余禄があるので書いておく。 まず、派遣村に集まる人々に生の目的がないかのように論難しながら、一方で彼らをそのような状態に追い込んだシステムについて、みちアキ氏には批判的視座がないことがあげられる。これは、みちアキ氏にとって「運が悪い」ですむことだというのは、ガザ虐殺問題に関する過去ログを参照すれば理解できるのだが、そのような態度は「人間の作り出した、改変しうる仕組みに対する盲従」の内面化、すなわち自己奴隷化ではないだろうか。そのような自己奴隷化をなしている人間が、その範囲で「生の目的」を語っても、その自由は「仕組み」の内部の自由――端的に云うと奴隷の自由でしかありえない。みちアキ氏が

    飛べ、ヨッサリアン!――派遣村に集う人々の生の目的論的意味論争についての所感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2009/01/10
  • 伊藤計劃「ハーモニー」――「わたし」と「世界」を巡る物語―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション) 作者: 伊藤計劃出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2008/12メディア: 単行購入: 50人 クリック: 931回この商品を含むブログ (329件) を見る先日読了したので、Twitterでメモしたことなどを下敷きに、少しばかり論じてみたい。 伊藤計劃の小説は常に一人称で書かれているのだが、この「わたし」への固執――すなわち実存への固執という問題意識が、彼の書く物語のテーマやギミックと密接に絡まりあっていること――具体的には「わたし」という存在と、それを生み出した近代的スキームの解体を追求するために、あえて使われているということを指摘したい。 そもそも近代において、「わたし」という存在は世界との対立に生ずる存在であるがゆえに、「わたし」にとって世界は来的に異物であり、耐え難い。しかし「世界」は「わたし」に対して圧倒的であり、ゆ

    伊藤計劃「ハーモニー」――「わたし」と「世界」を巡る物語―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    wideangle
    wideangle 2008/12/19
  • 「エロゲー」はポルノか? ――性そのものと性的なものとの差異 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

  • 「速度」と「本質」——表現がテーマを駆逐する | 2008-09-06 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    読書メーターに登録し、読書量を記録することにした。読書の内実を分量で量るのは頂けないが、読書記録や、それを元にした検索データベースとしては役に立ちそうなので、飽きるまでは使ってみることにする。 ともよちゃんと高橋さんがゲームの倫理について語っていたことで、ふと連想したことなど。 大塚英志の文章を念頭において「なにかをメディアに載せて届けるには速度が必要だ」という話は以前もしたが、速度だけが届いて、それに載せたものは届かないということもままある。「なんかすごいスピードで通り過ぎていったね!」という感じで。それで、スピード自体に感銘を受け、自らもその真似をしてスピードを上げて激突死する奴が増えるというような構造はありそうだと思う。 大塚氏の場合「多重人格探偵サイコ」などがその部類に当るのではないだろうか。あの作品において全体的に表現されているのは、当の意味でのオリジナルや超越性みたいなものに

    「速度」と「本質」——表現がテーマを駆逐する | 2008-09-06 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
    wideangle
    wideangle 2008/09/07
    大塚英志の場合は自身でさらに攪乱しまくるから余計にわかりづらくなるというか。
  • 2008-08-30

    今日は久しぶりにTRPGのオンラインセッションなどしてそれなりに楽しんだ。休みっていいニャー。伊藤計劃氏の新作も第1稿が脱稿されたようで何より。秋ごろには読めるかな。 それはそうとして、今日もついったからお蔵出しなどする。ネタがなくなるまではこの調子で。 ついったからの転載・改稿。 上遠野浩平「ブギーポップは笑わない」から始まった、一連の作品――いわゆるブギーポップシリーズは、同時代文学として多くのロスジェネ世代から支持されたのだが、それは何故だったのか、ということを語ってみる。 ブギーポップシリーズの登場人物たちの多くは、物語の中で、自己が置かれた状況の質や大局から一貫して疎外され、その過程でさまざまなものを失う。彼らの物語はそれぞれの個別的な体験であり、ブギーポップを巡る物語はそうした小さな物語の編集に拠って成立する断片の集合体である。 彼らは、社会の分子化による多様化とそれによる超

    2008-08-30
  • 供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    炎暑の日々をやりすごすうち、ふと気づくと涼風を肌に感じる季節になった。夏ももうすぐ終わりだなあ。 ここのところ、blogでまとまったエントリを書く気力がなかったので完全放置していたのだけど、Twitterなどでそれなりに書き留めた断片的なメモはあるので、それらを編集してお蔵出しなどしてみる。 ついったからの転載、改稿。 「恋空」は古典的な通過儀礼譚、しかもその純化された形として読むことができる。「日常>他者である移行対象との出会い>非日常かつ象徴的生>移行対象の死>日常への帰還と自己変容」という型がそこには見出される。しかし、なぜそのような通過儀礼譚が多くケータイ世代に受け入れられたのかが疑問としてある。 以前、現代における通過儀礼は共同体や社会システムの構造変化により困難になったと書いた。それに代わり「共同体が付与する意味にしたがって通過儀礼をなして成長するのではなく、自らを再帰的に成長

    供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • 田中ロミオ「AURA――魔竜院光牙最後の闘い――」あるいは通過儀礼としての邪気眼 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    id:i04氏に「決断☆主義少女うのたん」を書いていただいた。決断主義ラジオ2を聴いたときの一発ネタがついに具現化、という次第で。誠にありがとうございます。 ところでうのたんの魅力というのは、そのツッコミどころも含めての魅力だと思うんだ。いわゆる「言及しましたね!」力の高さ、と云い換えてもいい。ヲタの想像力と生きる世界を痛烈にdisりながら、それでいて反論の余地もあるツッコミビリティの高さ。このふたつがそろっているので、何だかんだいいながらうのたんに反論したりツッコンだりしたわけで。それが頂点に達したのが決断主義ラジオ2で、あずまんの猛烈なツッコミに一方的に押されてあわあわしている姿に、うのたんヲチャー(少数種)はみんな萌えたといいます。「ゼロ年代の想像力」も無事出版されたし、買ってサマリー作るのを楽しみにしていたり。うのたんに関する真面目な話はそのときにでも。 AURA ~魔竜院光牙最後

    田中ロミオ「AURA――魔竜院光牙最後の闘い――」あるいは通過儀礼としての邪気眼 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • 事前情報にほとんど触れてない俺が勝手に想像した「スカイ・クロラ」 | 2008-08-05 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    毎日35度前後の気温で、外回りをしてると熱中症になりそう。クールビズ環境とはいえ、煮える。早く秋になってほしい。 「スカイ・クロラ」の内容を、見る前から勝手に想像などしてみた。一応原作は読んでるが大体忘れた。掴んでいる情報はほとんどない。NHKの押井出演番組も見てない。トレイラーを見たのと、webのネタバレ回避感想を呼んだ程度、という感じで。 で、想像の内容など。 「キルドレはショーとしての戦争を演じる人形であると同時にスカイ・クロラという劇を演じる人形であるという二重性」 BD、イノセンスなどに見られた構造の再演。劇中人物がある「現実」から遊離した「状況」を体験させられながら、自らの主体的生を目指して彷徨し、一応の落としどころを物語の中で発見するが、しかしそれも虚構に過ぎないという突き離しが存在する。見た後その突き離しぶりに愕然とさせられるかもしれない。 ちなみにこれが「AVALON」で

    事前情報にほとんど触れてない俺が勝手に想像した「スカイ・クロラ」 | 2008-08-05 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • 2008-07-27

    少しばかり環境を変更。 プロバイダのDNS脆弱性がかなりアレげだったのでOpenDNSに変更してみた。 今のところ、とりたてて不都合はない。 はてなアンテナが満杯になっていたので、批評系サイトをまとめてサブアカウントのアンテナに移した。 これについてはRSSに移行することも考えている。 ヲタク・サブカル圏における、作品と自己、あるいは作品と状況論を絡めて語る、いわゆる「なんちゃってカルスタ」という批評の方法論は、ヲタが「自分とは何者であるのか、自分はどのような状況と立場にいるのか、そしてどこに行くのか」という問いとして存在する。それは状況の把握と立ち位置の確定により、世界を把握し、それとの関係性を模索する試みである。もちろん、そのような方法論は不完全かつ歪であるのだが、しかしそれでもなお、一定の意味を持っている。 過去においてそれは文学の役割だったのだが、文学がそのような役割を果たしえたの

    2008-07-27
    wideangle
    wideangle 2008/07/29
  • サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    今日は1日中ついったしていた。明日は外で遊ぼう。 加藤智大はサバルタンである。なぜならば、彼は社会から疎外され、ネットからも疎外され、自身の主体性からも疎外されている存在だからだ。 加藤が社会的にもネット的にも疎外されていたことについては、既に多くの語りが存在する。では、自身の主体性からも疎外されていた、というのはどういうことか。それは加藤の供述書に見られる決定的な類型性から読み取り得る。 加藤は自己がいかに社会に疎外され、ネットにおいても疎外されていたか、そしてそれはなぜなのかを語るが、そこに読み取れるのは類型的な――極一般的にネットで流布されている非モテ言説のテンプレートでしかない。そこからは白昼衆人環視の中で大量殺人を起す動機を読み取ることができない。もしそこから動機を読み取れるというのなら、非モテ言説を述べるbloggerのほとんどは大量殺人者予備軍であることになるが、もちろん、そ

    サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
    wideangle
    wideangle 2008/06/22
  • 2008-06-17

    wideangle
    wideangle 2008/06/20
    "「自らに近いが嫌忌せざるを得ないもの」"
  • 2008-03-18

    いろいろあってCOOLPIX5700を買った。15000円前後でほぼフルセット。ネオ1眼がそんなにいいのか、といわれると言葉もないけど、魅入られたのだから仕方ない。しかしこれでまた壊れられたらたまらんなあ。つか、もう少し背伸びしたらR7買えたよねこれ。なにやってるんだろう。 それはそうとして。 「ひとりで穴を掘っているお勉強好きなbloggerのネットワーク」に関しては、るりあ先生の云ったことがだいたい正論だと思うんで特に反論すべきこともなく。なるほどと納得した次第。 それもそうとして。 近々伊藤計劃論を書くためにレジュメをぼつぼつと書いている。モノに出来ればいいなと思う。モノにならないものが余りにも多い昨今、どこかでけじめをつけるべきだろう。 えーと。2年半くらい前にみちアキ氏と少しだけ話したことなんだけど、フィクションの中のキャラクターにもヒューマン・ライツってのはありうるのか、って疑

    2008-03-18
    wideangle
    wideangle 2008/03/18
  • 1