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<道路レポート>に関するyamaigaのブックマーク (162)

  • 【山さ行がねが】道路レポート 鬼怒川温泉の廃観光道路 

    例年、その年の一番始めに書くレポートを何にするかで悩む。 やはり一年の始まり、自分自身の士気を高める上でも、あまりしょうもないレポで明けたくないし、また、多くの読者様の「廃道初め」になるのかも知れないと思うと、そう軽々とネタを決定できないものだ。 そんな中で、今年はわりかしすんなりと決定した。 表題は仮称なのだが、正式な道路名がまだ判明しないので、やむを得ない。 しかし、この道の状況をよく現すタイトルにはなったと思っている。 「東京の奥座敷」と呼ばれ、箱根と共に関東を代表する温泉場である栃木県日光市の鬼怒川温泉。 そこに廃道があるとの情報を手にしたのは、平成18年の夏頃だった。 情報提供者は、『険道と標識のページ』を運営する春日氏である。 どうもその廃道の途中には一の隧道があるらしく、それより先は訳あって未調査だという。私は彼からその調査を託された形となって、いざ訪問の機会を覗っていた。

  • 【山さ行がねが】道路レポート 茨城県道248号八溝山公園線 

    八溝山にある二の不通県道のうち、栃木側から登ってくる栃木県道28号「大子那須線」を攻略。八溝山の肩に達した私は次に、県境線を越えて茨城県側の不通県道である「茨城県道248号八溝山公園線」を使って下山する事にした。 まさに登りも不通、下りも不通という、不通県道マニアにとっては垂涎のルートセレクティング! 二の県道を結びつけるものは、県境線の尾根に沿って山頂を目指す「八溝林道」だ。 簡単にではあるがこの林道もレポートしつつ、不通県道を目指すことにする。 なお、市販の地図には一部、例えば右に挙げたもののように、福島県道377号「八溝山線」と茨城県道248号を県道の色で結びつけているものもある。 だが、帳簿上の県道指定区間は県道377号が福島・栃木県境以下、県道248号は八溝山林道との交差点以下である。 また、こうしてレポートを書いていてもこんがらがるほど、この山域には八溝の名を冠した道が多い

  • 【山さ行がねが】道路レポート 切ヶ久保新道   

    今年11月始め、『廃線隧道のホームページ』を運営される“しろ氏”より、興味深い情報のご教示を頂いた。 「みやま書房」が昭和43年に発行した『三国街道』なるのなかに、群馬県北部の「切ヶ久保峠」というところに、明治7年に隧道が掘られたという記述があるというのだ。そして、現在はそこに車道らしいものはないという。 明らかに“明治廃隧道”を匂わせる情報。しかし、遠方のため自身では容易に調査できないということで、私にその貴重な情報を教えてくれたようだった。 自身にとっても初耳である切ヶ久保峠。そして隧道。 まずは国土地理院のサイトへ行き、地形図にその名を探した。 【マピオンで位置を確認】 最新の地形図にも、切ヶ久保峠の名前ははっきりと記されていた。 現在の地名で言うと群馬県利根郡みなかみ町の布施(ふせ)地区の南方で、この峠を挟んで吾郡高山村中山地区に接している。 図中の切ヶ久保峠は、峠の南側に道が

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-97>2007年度 山行がレポート大賞第5位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 栃木県道28号大子那須線 大和須不通区

    茨城県の最高峰八溝山(海抜1022m)は、阿武隈高地の南端に位し、八溝山地を経て筑波山で関東平野に没する、州北彎(わん)山系外帯の一角をなしている。 その山頂は茨城県大子(だいご)町に属するが、山頂付近には福島県棚倉町および栃木県那須町との県境線があり、いわゆる三国峰となっている。 標高はたかだか1000mに達する程度だが、周辺には他に目立って高い山がないことから360度のパノラマに優れ、古くから観光登山の対象となるとともに、山頂には八溝嶺神社が、また八合目に坂東二十一番札所の日輪寺があって、信仰の山としても著名である。 この八溝山一帯の道路は、外周をなす国道118号、294号、461号および福島・栃木県道60号と、これらの道路上から山頂へ向けて延ばされた数の県道・林道によって構成される。 右の図は主要な道路を示したものであるが、県道28号と八溝林道を利用することによって山頂付近まで車

  • 【山さ行がねが】道路レポート 群馬県道255号下久屋渋川線   

    群馬県の一般県道である県道255号下久屋渋川線は、沼田市下久屋町と渋川市北橘町を結ぶ、全長約23kmの路線である。 その径路は全線にわたって利根川、もしくはその支流片品川の左岸に沿っており、利根川の右岸を通行する国道17号と好対照を示している。 渋川市は広大な関東平野の北端の一部であり、“坂東太郎”の異名をとる日有数の大河利根川は渋川以北、沼田盆地に達するまでのあいだ、東側の赤城山と西側の子持山とに挟まれた狭窄部を穿入している。 この山峡を国道17号、JR上越線、関越自動車道、そして県道が土地を奪い合うように通行している。 明治以前にはこのエリアを、中山道の脇往還である沼田街道が、高崎や前橋方面から道と西通りの2に分かれて細々と通っていた。 このエリアが交通上の要衝となったのは明治以後のことで、第一には国策として新設された「清水国道」が明治18年以後ここを通ったこと。 清水国道が明

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道17号旧道 二居峡谷  

    俺はまたしても、トンデモナイ廃道に遭遇してしまった! 上越国境とは上州(関東圏・群馬県域)と越後(北陸圏・新潟県域)とを隔てる線であり、すなわち県境である。 このエリアでは古くから「三国峠越え」と「清水峠越え」の二の道が、国家の幹道としての主導権を争って来たのであるが、現在では決着済みである。 近代において両者の優劣を決定づけたのは、上越国境を結ぶ初めての自動車道が三国峠に拓かれたことによる。 昭和34年、戦前から計画されてきた三国トンネルおよび前後13km余りの山岳道路が一級国道17号として開通し、馬さえ通れなかった三国峠が近代的自動車道へと変貌を遂げたのである。 しかし、この段階ではまだ新しい国道も十分な機能を発揮できなかった。 なぜなら、この新潟側に連なる火打、二居、芝原などの峠が未改良で、自動車による通行に大きな危険を強制したためである。 続いて上記各峠も改良が進められ、昭和40

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-95>2007年度 山行がレポート大賞第8位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 山王峠の謎の道跡  

    山王峠は、福島県南会津郡南会津町(旧田島町)と栃木県日光市(旧藤原町)とを結ぶ県境の峠で、その立地を一言で言い表すなら「関東と会津地方とを最短で結ぶ位置」である。(Mapionで位置を見る) 明治時代にはかの三島通庸がいち早く車道へと改築し、現在では国道121号を筆頭に352号と400号の合計三の国道が重複していることからも、その立地の持つ意義深さが理解されよう。 中世より連綿と受け継がれてきた山王峠であるが、大きく分けると次の三世代の道が知られる。 一つは中世・近世までの道であり、下野街道や会津西街道、または南山通りなどの幾つもの呼び名が、その歴史深さを証明している。 現在、その峠路は地形図からも完全に消えている。 次に、三島通庸の切り開かせた会津三方道路がある。 福島県令在任中の明治16年に、会津若松からこの山王峠頂上までの馬車道が、多くの反対運動を押し切る形で竣工した。 この道は、

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道135号旧道 宇佐美峠  

    熱海と伊東の間に、初めて車道の建設が始められたのは明治40年である。 この道が現在の国道135号の前身となるが、予算不足と関東大震災による建設中道路の大破などにより、全通は実に19年越しの大正14年だった。 ようやく出来上がった県道も、幅2.7mほどと極めて狭く、なお伊豆の陸上交通は発展途上の状況にあった。 大正14年12月には静岡県会によって「伊豆大循環道路促成改築案」が議決され、初めて半島の海岸沿いを循環する車道を体系的に整備するプランが立てられた。この工事は西伊豆(現:国道136号)、東伊豆(現:国道135号)の各所で進められ、現在の東伊豆町トモロ岬が昭和8年6月に開通したことで全通を見た。 昭和5年に北豆大地震が発生し、大正14年以来の熱海伊東間の県道は数ヶ所で大破した。 しばらくは徒歩連絡を余儀なくされたが、国庫補助が適用され、より強い道として甦った。 昭和28年二級国道135号

  • 【山さ行がねが】道路レポート (一)太井上依知線 小倉不通区  

    神奈川県道511号太井上依知(おおいかみえち)線は、相模原市津久井町太井と厚木市上依知とを結ぶ、全長12.7kmの一般県道である。 その全線が相模川に沿っており、城山・津久井方面から相模原市南部及び厚木方面への抜け道として、朝夕を中心に交通量の多い都市近郊路線である。 この道には、“知られざる区間”が存在している。 しかし、頻繁に利用しているという方でも、まずその存在を知る人はいないと思う。 “知られざる区間”なのだから。 通常、この県道の起点は、城山町小倉の小倉橋交差点であると思われているし、あらゆる地図はそのように描いている。私の持つ数種類の地図から“google map”に至るまで、そこを起点として描いていない地図はなかった。 だが、そこはあくまで城山町小倉である、路線名にある起点津久井町太井とは最低2kmの隔たりがある。 もし県道名にその路線の趣旨や接続目標といったものが反映されて

  • 【山さ行がねが】道路レポート (主)米沢南陽白鷹線 大峠  <リベンジ編> 

    もう2年も前のことになるが、極めてマイナーな不通県道をこの道路レポで取り上げた。 山形県の南部に位置する置賜地方にあるこの県道は、県道の中では格上の存在である「主要地方道」に指定されていながらも、肝心の峠越え区間に断続的に2カ所の通行不能区間が設定されており、自動車での通行が出来ない道として取り扱われている。 しかし、現地へ行ってみると自動車どころか、自転車でさえ通り抜けは不可能な有様だった。かつてそこに何らかの道があったことも疑わしいような、猛烈な藪に阻まれたのだった。 その時のレポートはこちらだ。 今回のレポートはその続きの内容となるので、まだの方はぜひご一読いただきたい。 ここからは、前編にあたるレポの成果を踏まえて話を進めたい。 この不通区間は、起点の米沢側から南陽市・長井市・白鷹町の順に相次いで二つの峠を越える山岳地帯にある。 そして、この二つの峠の両方ともが不通区間となっている

  • 道路レポート

    で、私としては「通行不能」などと言われれば、もちろんどっちも興味津々というわけで、 去る05年9月24日とその翌日にかけ、この二つの大峠にアタックし、 結果として、一つを制覇、もう一つは、失敗した。 稿で紹介するのは、このなかで失敗した方の大峠である。 その名も、山形県主要地方道3号(米沢南陽白鷹)線、大峠だ。 問題の通行不能区間の周辺図が右。 路線名の通り、米沢市から北上し南陽市、さらに北上して松葉沢山を大峠で越え、白鷹町に至る。 全長は約35kmで、そのうち5.2kmが通行不能区間として公式に案内されている。 こちらの「大峠」は決して高い峠ではなく、その気になれば越えられそうな気さえする。 なんと言っても、海抜1156mの日一大きな?大峠を突破したその日のことであるから、「こんな大峠なんて、小さい小さい。」などと、鼻歌交じりで突破する予定であったのだが…。 結果は無惨な、惨敗。 も

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道49号旧道 藤峠  

    一般国道49号は、とにかく峠の多い道である。 太平洋岸と日海岸を結ぶ“列島横断の道”だけに、さもありなんとも思うが、しかし脊梁越えを意識させられるほどの大きな峠はない。 あるのは、麓との比高がせいぜい200m程度の、まあまあ穏やかな峠の数々である。 その長い道程のうちでも特に、会津盆地の中心地である会津若松市から西へ新潟県の津川町までの区間は、峠が多く連なる区間である。 県境をなす鳥井峠を中心に、車峠や惣座峠、少し離れて藤峠や七折峠がある。 道は、大河である阿賀川(新潟県内では阿賀野川)に概ね平行するのだが、その両岸は切り立った山地が多く、車道であるべき現在の国道は、敢えて小さな峠を連ねる道を選んでいる。 江戸時代までは、この川が交易の主役であったが、今ではこの完全に舗装された国道と、さらに新しい高速道路とが、その多くを担っている。鉄道全盛の時代も、既に過去のものだ。 今回紹介する藤峠は

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道135号旧道 トモロ岬

    一般国道135号は、伊豆半島の東岸を南北に縦貫する、観光及び物流の両面で代替路の無い極めて重要な路線である。 実際に通行してみると、確かに、ほぼ全線2車線しかない路幅の中を溢れんばかりに、様々な車が通っているのが分かる。 大型トラックから観光バス、オープンカーやバイク、自転車に至るまで、季節にもよるが、ありとあらゆる車を見ることが出来た。 そしてこの道は、伊豆半島という希代の観光地に全線の立地を置いたため、随所に有料バイパスとの分岐や合流がある。 その中には既に無料開放化されて久しい物も少なくないが、今でも、地方からの観光客やサンデードライバーの多くが、何気なく有料バイパスへ連れて行かれている。小田原から熱海の間はとくに、図らずも二度ばかり有料バイパスへ連れて行かれることになる。 今回紹介する旧道もまた、有料バイパスとの関わりの中で生きた道だった。そして、ある激甚な災害によって死んでいった

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第三次 日原古道探索計画 江戸道編

    中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。 彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。 はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。 右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。 風土記における道の分類(第1期~5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。 このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。 この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。 第三期

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-88>2007年度 山行がレポート大賞第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 万世大路 <残された謎> 烏川橋編

    いまや、日中の廃道好きにその名の知らぬ者の無くなった感さえある「万世大路(ばんせいたいろ)」。 国道13号福島~米沢の間に立ちふさがる、奥羽山脈栗子山塊を貫く、その旧道の名前である。 同じ場所に何度も行くことは珍しい私も、気がつけばこの道を過去何度も訪れていた。 初訪は03年の5月の単独チャリによるもので、以降04年11月に大規模な合調隊を編成しての工事用軌道踏査、06年6月は“世にも危険な廃道ガイド”としてこの山を訪れた。そして、今年も縁があったようで既に2度、福島側と米沢側を別々にカウントするならば3度も訪問している。 この道に起きている変化を、いま一言で述べるとすれば、「再生」という言葉に尽きる。 初訪の頃には殆ど刈り払いもなく、自転車一台を通すことさえ罷り成らぬ悪路であったものが、年を経るごとに踏み跡は鮮明化し、近年では遂に自動車(2輪だが)による訪問さえ赦している。 そして、こ

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道252号旧道 駒啼瀬  

    平成19年5月7日 午前5時01分 私はまだ日の空けぬうちに、こっそりと宿を抜け出すと、車に積んであった自転車を取り出し、静かに漕ぎだした。 朝までには戻らねばならないが、2時間くらいは余裕がある。 これから行く場所は、タイトルの通り、国道252号の旧道の一部である。 以前、「街道WEB」にてこの道がはじめて紹介されたときから、ずっと訪問の機会を覗っていた。 今回の旅は、普段の山チャリではなかったのだが、まだ皆が寝静まっているこのチャンスを、逃すわけには行くまい。 なにせ、私が泊まった宿とその旧道とは、まさに目と鼻の先だったのだ。 日の出は何時なのだろう。 四方を高い山に取り囲まれた、この只見川沿いの夜明けは、だいぶ遅れる。 既に旧道の入り口を過ぎ、いま足元にある2車線幅の舗装路は、難所を迎える前の、まだ平穏な旧道である。 ここの旧道は変わっていて、現道よりもかなり低い位置で峠をパスする

  • 【山さ行がねが】道路レポート 茨城県道61号 日立笠間線  

    主要地方道日立笠間線は、茨城県北最大のまち日立から、常陸太田を経て内陸の笠間市までを結ぶ、全長約50kmの県道である。 このうち、起点に近い日立市大久保から常陸太田市亀作までの約7kmは、丘陵的な山地帯を横断する区間で、市境を跨ぐ約800mの不通区間がある。 右の地図を見て分かる通り、この不通区間を含む山越えの区間は、日立市と常陸太田市を結ぶ最短ルートにあたり、古くからその必要性が認識された道であった。 そのことは、昭和27年に現行の道路法が施行された最初の府県道認定時において、既に、「一般県道132号常陸太田多賀線」として、現在の日立市河原子~常陸太田間が指定されていることからも伺える。 だが、未だにこの県道は開通していないという。 はたして、この僅かな不通区間はどのようになっているのか。 芽吹きのシーズンに合わせ、日立市側から不通区間を目指した。 2007/4/14 10:48 【現在

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道127号 旧道及び隧道群  

    国道127号は房総半島の西海岸を南北に縦貫する全長55kmあまりの路線である。 そのルートは半島南端の館山市より始まり、安房郡富浦町、同富山町、同鋸南(きょなん)町、富津市、君津市を通り、木更津市で国道16号東京環状へと繋がっている。(このうち富浦町と富山町は2006年3月に周辺数町村と合併し南房総市になった。) この路線の特色としては、海岸通りに多くの隧道を持つ事が挙げられる。 その多くは戦時中に軍事国道として整備されたもので、なお現役で利用されているほか、更に古い道筋が周辺に散見される状況にあり、全国でも屈指の旧隧道密度を誇る路線と思われる。 以下にこの道の歴史を簡単な年表にした。

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道46号旧旧道 仙岩峠(秋田側) 第一回

    私にとって、格的な廃道デビューの地「仙岩峠」。 秋田岩手両県にとって最も重要な交通路であるこの峠の一帯には、戦国時代よりも昔から道が存在していた。 だが、秋田県仙北郡と岩手県岩手郡の頭文字を取って名付けられたのは明治8年のことで、それまでは国見峠と呼ばれていた。 我々オブローダーにとっての仙岩峠と言えば、昭和52年に「旧道」となり、そのまま廃道化した旧国道が有名であるが、それ以前にも車道があったことは殆ど知られていない。 それこそが、明治8年に秋田・岩手両県合同で整備を開始した、初代・仙岩峠である。 もっとも、この時の道は車道と言っても馬車がようやく通れる程度の内容で、しかも秋田県側の整備は明治末まで遅れたという。 また、自動車の台頭にあってはもなすすべもなく、結局昭和37年に先の“旧国道”が完成するまで、殆ど地図上だけの道であったと記録されている。 私がこの仙岩峠“明治道”に着目したの

  • 【山さ行がねが】道路レポート 山梨県道513号 梁川猿橋線  

    線は極めてマイナーな道である。 山梨県道513号梁川猿橋線は全長4542mの一般県道であり、地図とその延長と照らし合わせてみる限り既に全線が供用されているようである。地図によっては途中をかなり細い線で描いているものの、国道20号と桂川を挟んで平行するそのルートは、バスも通る生活道路のようだ。 次の地図をご覧頂きたい。 だが、私はこの路線はまだ、懐を遂げていないと考える。 当は、梁川駅付近まで伸びたいのではないか? その根拠はずばり、路線名に対し今の県道は中途半端に感じられるという点に第一を置く。 また、地図に描かれた終点の状況も、私の目にはどこか不自然に感じられる。 さらに、古い地形図にのみ描かれた、「その先の道」の存在も重要な根拠である。 ただし、これはあくまでも私の妄想である。 現在の起点は下畑という場所にあるのだが、ここは大字で見るとギリギリ大月市梁川町に掛かっている。当にギ