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  • 大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4) - 大和徒然草子

    室町時代は一般に将軍権力が弱く、有力守護大名たちのパワーバランスによって、不安定ながらも秩序が守られていた時代です。 そんな室町時代で三代将軍・足利義満は、守護大名達の家督争いに介入してその力を分散し、巧みに対立する各守護家家中の派閥と合従連衡を繰り返すことで自らのプレゼンスを高め、室町時代を通じて最高の権勢を誇りました。 以後、この手法は歴代足利将軍たちの常套手段となり、六代・義教、八代・義政へと引き継がれていきます。 前回は、万人恐怖と恐れられた六代将軍・義教が嘉吉の変で暗殺された後、大和国で10年以上も続くことになった興福寺の権益・川上五ヶ関を巡る争乱について紹介しました。 義教の死によって復活した畠山持国は、管領になると大和の紛争に介入し、義教によって没落していた旧南朝方の越智氏や大乗院門跡だった経覚を支援して、大和の戦乱を再燃させます。 一方、中央政局で畠山氏と主導権を争う細川勝

    大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/16
    応仁の乱の主たる原因となった畠山氏家督をめぐる争いは大和を主戦場として行われました。この時の両派がそのまま大和の応仁の乱における東軍、西軍へとなっていきます。
  • 高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子

    奈良県内の近世城郭といえば、桜の名所として名高い大和郡山市の郡山城、山麓の巨大石垣群が壮観な高取町の高取城が、城跡としては有名ですが、実はもう一つ大規模な近世城郭が存在しました。 奈良県東部、大和高原地域に位置する宇陀市大宇陀の古城山(しろやま・標高473m)に築かれた宇陀松山城です。 江戸時代の初めに廃城・破却されたこともあり、郡山城、高取城と比べると知名度は低いものの、近年発掘調査と城跡整備も進み、見ごたえ十分の城跡になってきました。 今回は宇陀松山城の概略史と現在の城跡の様子をご紹介します。 宇陀松山城とは まちかどラボ 基情報 秋山下城 城内 横堀~南西虎口 丸 天守郭 帯郭(南側)・南虎口周辺 南東虎口~大御殿郭 西口関門~春日門 参考文献 宇陀松山城とは 宇陀松山城の場所はこちら。 宇陀松山城は、有名な桜の名木・又兵衛桜のある宇陀市の大宇陀地区にあり、高取城、郡山城とともに

    高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/06/09
    奈良県内では3番目に整備された近世城郭だったが1615年に廃城破却された幻の城跡。大規模な破却の跡が残り破却の様子を記した文献も残る点で貴重な遺構である。
  • 応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子

    南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し始めます。 南北朝合一後も相次ぐ衆徒・国民の私合戦に手を焼いた興福寺は、ついに室町幕府へ合戦の調停を要請し、大和武士たちは将軍の下で私合戦の停止を誓約しました。 この誓約により大和武士たちへの指揮命令権は興福寺から室町幕府へ移り、興福寺の「大和守護」としての地位は有名無実化。 興福寺傘下の衆徒を統率する官符衆徒棟梁が、事実上他国における守護代と変わらぬ役割となり、仏教王国大和において、寺門に対する武士たちの下剋上がさらに促されることになります。 しかし平和は長続きせず、大御所・足利義持が後継を定めずに急死して幕政が混乱する中、1429(正長2)年に新将軍・足利義教が誕生。 それから間もなく小さな国人間の争いを火種として、大和国中を巻き込んだ大乱・大和永享の乱が勃発しました。 戦いは10年にわたっ

    応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/06/02
    南北朝の争乱から大和永享の乱と続いた大和の争乱は嘉吉の変後による中央政局の混乱により止むことなく続きました。川上五ヶ関の権益を巡る紛争はその後の応仁の乱の火種の一つとなりました。
  • 上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県内には環濠集落も含めると約560もの城郭が存在するとされますが、文献には登場せず、当時の呼び名もわからない城跡が多数あります。 そんな中、逆に史料上頻出しながら位置を特定できていない城郭もあります。 今回ご紹介する井戸城もそんな城郭の一つです。 井戸城とは 井戸城(磯上塁)周辺 上街道(石上町~田部町) 別所城近辺 参考文献 上街道の散策スポット 井戸城とは 井戸城は井戸氏の拠点として史料上に度々その名が現れる城跡です。 井戸氏は一乗院方坊人・衆徒で、血縁関係にあった筒井氏と行動を共にしていたこともあり、中世大和の歴史に度々姿を現す一族でした。 1429(正長2)~39(永享11)年まで、10年間にわたって大和国内全土を巻き込んだ大乱・大和永享の乱は、井戸氏が近隣の豊田氏と起こした小競り合いが原因でした。 また、戦国末期の当主・井戸良弘は筒井順慶の重臣として活躍し、松永久秀との抗争で

    上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/26
    筒井氏重臣、井戸良弘の居城、井戸城は一次史料に頻出する城郭でありながら場所の特定が出来ていないお城です。二次史料から見える天理市の候補地を紹介します。
  • 南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2) - 大和徒然草子

    平安時代から鎌倉時代にかけ、興福寺は、武装した荘官たちを衆徒・国民として傘下に吸収し、その武力を背景として大和国内の支配権を確立しました。 鎌倉時代、幕府からは半ば独立していた大和国内では、興福寺の別当(長官)を輩出する一乗院と大乗院の二大院家が役職や荘園、院家の相続を巡って激しく対立し、鎌倉末期の13世紀末には永仁の南都闘乱と呼ばれる武力紛争が勃発。 朝廷や幕府の介入でようやく混乱が鎮められるましたが、興福寺の権威は徐々に陰りを見せ始めます。 また、鎌倉時代末期には農業生産力の向上で余剰生産が増え、荘園・公領では有力名主の経済力が増すとともに、武装して領主の介入や支配に反抗的な悪党・強剛名主が出現すると、1301(正安3)年の悪党たちによる狼藉に対し、興福寺は幕府の力を借りてようやく鎮める有様でした。 興福寺による大和支配が揺らぐ中、大和は鎌倉幕府の滅亡とそれに続く南北朝動乱の渦中に飲み

    南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/19
    鎌倉末期から興福寺は一乗院・大乗院両門跡の私的な争いからその権威を失墜。紛争の調停機関を失った大和国では南北朝の争乱を通して衆徒・国民が興福寺から自立して抗争を繰り返す戦国の時代に突入しました。
  • なぜ興福寺は中世大和の支配者となったのか~大和武士の興亡(1) - 大和徒然草子

    歴史で「中世」といえば、12世紀末の鎌倉時代から16世紀後半の戦国時代まで、おおよそ鎌倉幕府、室町幕府が全国に守護を置いて武士による支配が全国的に進んだ時代です。 そんな中、全国で唯一幕府機関による支配を寄せ付けず、守護が設置されなかったのが、現在の奈良県・大和国でした。 大和国は仏教勢力、とりわけ興福寺の力が強く、守護・地頭がごく一部を除いて設置されなかったと広く知られていますが、武士が存在しなかったのかといえば、全くそんなことはありません。 特に、鎌倉時代末期から南北朝・室町時代にかけて大和の武士団の活動は活発で、大和国では全国的にも早い段階で戦国の混乱期を迎え、京都に近いこともあって大和の武士たちは中央政局とも深く影響し合う存在でした。 中世の奈良をより深く楽しめる、他の国とはちょっと違う大和武士の世界をご紹介します。 興福寺による大和支配の始まり 治承・寿永の乱と大和守護 大

    なぜ興福寺は中世大和の支配者となったのか~大和武士の興亡(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/05/12
    奈良県は中世興福寺が支配したことで知られますが僧兵しかいなかった訳ではなく他国同様平安後期には武士が出現しており鎌倉時代に興福寺の支配体制に組み込まれました。その特異な大和武士団の興亡史の1回目です。
  • 奈良県下最大の花街・生駒新地とその跡を辿る - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県生駒市は大阪へのアクセスが良いことから、閑静な住宅街というイメージが強いですね。 奈良県内各市の中心街は、古代から近世にかけて発達した集落を起源とする町が多い中、生駒市の中心街付近は大正の初め頃まで小さな寒村でした。 それが大正の初めに現在の近鉄生駒駅が開業した後、急速に発展することになるのですが、なんと、奈良県下最大規模の花街にして関西でも屈指の歓楽街として成長するのです。 この時生まれた巨大花街・生駒新地が現在の生駒市中心街の直接のルーツで、奈良県内でも極めて特異な、興味深い過程を経て形成された町と言えるでしょう。 現在の生駒市の姿からは想像もつきませんが、その中心市街のルーツである生駒新地の今昔をご紹介していきます。 奈良県最大の花街・生駒新地 駅前 生駒新道(参道) 元町・町・山崎新町 生駒劇場~幻の生駒歌劇団 仲之町 門前町 宝山寺 宿泊予約 奈良県内

    奈良県下最大の花街・生駒新地とその跡を辿る - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/04/28
    #奈良県 #生駒市 の生駒駅前から宝山寺門前まで続く参道はかつて料理旅館が建ち並んだ #花街 で #生駒新地 と呼ばれました。現在宝山寺門前を除いて新地の趣は失われましたが花街時代の歴史や旧跡を紹介します。
  • 古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県内には初見ではまず読めない、いわゆる難読地名がたくさんあります。 西名阪自動車道の天理IC付近の地名、櫟(いちのもと)もそのひとつです。 ついつい自動車で通り過ぎてしまいがちな場所なんですが、自動車から降りて散歩を楽しめるスポットも実はたくさんある場所なんです。 櫟とは 上街道沿い JR駅 楢神社 北の横大路 大阪府奈良警察署櫟分署跡 馬出の町並み 在原神社 和爾下神社(上治道宮) 歌塚(和爾下街区公園) 周辺情報 参考文献 櫟とは 櫟の場所はこちらで、JR駅から国道169号線付近を中心として、西は大和郡山市と境を接し、東は東山中の山麓までの広範にわたります。 櫟は古代の官道の上ツ道と北の横大路が交差する要衝で、古代から和珥氏、柿氏といった古代氏族が割拠した場所でした。 応神天皇の歌に「櫟井の和爾坂の土を」と見えるように、古代は櫟井(いちい)

    古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/04/21
    #奈良県 #天理市 の櫟本は古代官道に由来する北の横大路と上街道が交差し近世にかけて物資の集散地として栄えた市場町。街道沿いの町並みや古社など散歩のスポットが多数残ります。
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(10)「きつね」と「たぬき」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 昔話の定番の一つに、狐や狸が人を化かすというフォーマットがありますね。 奈良県内の伝承にも、狐や狸にまつわる怪異譚がたくさん伝わっていますので、その一部をご紹介します。 狐の怪異・伝承 古女郎大明神 おきよ橋 安村坂の狐 きつねの井戸 狸の怪異・伝承 たか坊主 光慶寺の狸 北林の狸 参考文献 狐の怪異・伝承 古女郎大明神 ■奈良市大安寺町 JR奈良駅から150mほど南に行った場所に、昭和の初め頃まで「あいがいし」という竹藪がありました。 その藪の中に橋があって、そこに狐が住んでいました。 ある日、一人の武士がその橋を渡っていると、ひょっこりと一人のお坊さんが武士の前に現れて武士に突き当たりました。 怒った武士が「無礼者!手討ちにするぞ!」と凄むと、お坊さんは「何をぬかす。坊主にするぞ」と言うや、忽然と姿を消しました。 武士が訝しんでいると、今度は4人のお坊さんが現れ、武

    奈良県の怪異・妖怪の伝承(10)「きつね」と「たぬき」 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/04/18
    奈良県の狐やたぬきにまつわる昔話を集めました。狐は郊外たぬきは町中で悪さをする事が多かったようで大和郡山に化けたぬきのお話が多いのが意外でした。外堀の土塁は藪になってたので沢山たぬきが住んでたのかな。
  • 椿井文書~奥深い偽文書の世界 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 歴史や地域のブログ記事を書いていると、自治体の発行している自治体史や旧跡の案内板で、古地図や古文書による由緒などを目にすることが多々あります。 基的にそれらを目にするとき、絵図なら物で、由緒書きは当にあった、もしくはそのように地域で古来伝えられてきたと認識することが多いでしょう。 特に、専門家たちの手により編纂された自治体史の記述など、疑いなく受け入れる方がほとんどではないでしょうか。 しかし、それらの記述の根拠となる史料が、後世捏造された偽文書だったとしたらと考えると、空恐ろしい気持ちになります。 そんな恐ろしいことが実際に起きてしまい、いまだにその影響が続いている事例として知られるのが、椿井文書という一連の偽文書になります。 椿井文書は江戸時代末期に、椿井政隆が「創作」し、山城から近江、河内、大和と広範な地域に膨大な数が流布した偽文書群で、多くの自治体史で史料

    椿井文書~奥深い偽文書の世界 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/04/14
    恐ろしくも様々な示唆にとんだ問題を明らかにしてくれる、椿井文書から覗く偽書の世界は奥深いです。
  • 筒井氏の戦国期拠点城郭・椿尾上城~奈良県下屈指の中世石垣遺構を残す城 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県内で山城といえば、高取城や信貴山城、あるいは奈良盆地一望の絶景で知られる龍王山城が有名です。 これらの城以外にも、県内には多くの山城が存在しますが、その中でも中世城郭としては県内で最も石垣を多用し、規模も大きな城郭ながら、文化財指定もされず一般にはほとんど知られていない城郭が、今回ご紹介する椿尾上城です。 椿尾上城とは 城内 主郭付近 西曲輪群 参考文献 リンク 椿尾上城とは 椿尾上城は、中世の大和国内で中心的な活躍を見せた国人・筒井氏の山城です。 場所はこちらで、名阪国道の五ヶ谷ICから北へ2Kmほどの場所になります。 筒井氏が拠とした奈良盆地の筒井城からは、東へ約10kmの東山中にあり、五ヶ谷の北側山稜のピークである城山山頂(528m)付近に築かれました。 椿尾上城から南西に直線で1.4kmほどの場所には椿尾下城があります。 椿尾上城と下城(国土地理院HPよ

    筒井氏の戦国期拠点城郭・椿尾上城~奈良県下屈指の中世石垣遺構を残す城 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/04/11
    #奈良市 の #椿尾上城 は松永氏の信貴山城、十市氏の龍王山城、越智氏の高取城と並ぶ大和の代表的な #戦国期拠点城郭 。奈良県内の中世山城では例を見ない規模で石垣を多用した現在の姿を城の沿革とともに紹介します。
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 古来伝わる怪異譚の定番に「幽霊」のお話がありますね。 奈良県内にも幽霊が登場する昔話がいくつもあり、歴史事件にまつわるものから、一風変わった独特なものまでありますので、今回紹介していきます。 幽霊松と鴻ノ池 こんにゃく橋の幽霊 遠忠の血の足形 姫谷池 静が井戸 大鹿の怨霊 参考文献 幽霊松と鴻ノ池 ■奈良市法蓮町 奈良市のスポーツのメッカといえば鴻ノ池運動公園(現:ロート奈良鴻ノ池パーク)ですね。 その名が示す通り、鴻ノ池という池端に公園があるのですが、かつての鴻ノ池ではしばしば溺死する人が出たといいます。 その理由というのが、鴻ノ池の南東に聖武天皇陵の陪塚である淡海公と呼ばれる古墳の山上にある、幽霊松という松の大木にまつわる怪異譚。 昔猟師が幽霊松にとまった鳩を撃ったところ、実はその鳩はとある幽霊の化身で、羽を撃たれて元に戻れなくなり、近付く者を祟るようになったとい

    奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/04/07
    久しぶりに奈良県の怪異の記事を更新しました。今回のテーマは幽霊。戦国武将の怨霊から一風変わった幽霊まで奈良県の独特な幽霊伝承を紹介します。
  • 唐院城~巨大古墳と環濠集落(唐院環濠) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県内でも環濠集落が集中して残っている川西町ですが、中心地の結崎から寺川を挟んで西側に、中世城郭をルーツとする環濠集落・唐院があります。 唐院城と環濠について 唐院城 集落内 島の山古墳 東口地蔵 比売久波神社 箕輪寺跡 丹波市街道・下街道 周辺情報 参考文献 唐院城と環濠について 唐院の場所はこちら。 近鉄結崎駅から西へ1.8km、但馬駅から北へ1.4kmほどの場所にあります。 こちらは、現在の集落周辺航空写真にかつての環濠や街道を記入したもの。 (環濠は字名や現在の地形や水路からの推定を含みます。) 唐院環濠概略図(国土地理院HPより作成) 北から奈良、郡山と高田、五條をつないだ下街道が、集落中央で現在の天理方面へ通じる丹波市街道へ接続する道と分岐しており、その辻の南側、南北に連なる小字「城内」「甚五郎畑」が、唐院城の城跡とされています。 城郭は交通の要衝付近に築

    唐院城~巨大古墳と環濠集落(唐院環濠) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/04/04
    #奈良県 #川西町 の #唐院城 は中世国人の中村氏または唐院氏の居城とされ廃城後は環濠集落となった。巨大前方後円墳の島の山古墳や延喜社の比売久波神社や廃寺跡、環濠の町並み等見所の多い集落。
  • 大和郡山のもうひとつの城下町・小泉城(小泉陣屋)の歩き方 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県大和郡山市といえば、江戸時代に柳澤氏15万石の城下町だったことで知られますが、郡山以外にも、もう一つ城下町がありました。 片桐氏、1万1千石の拠であった小泉城とその城下の小泉の町です。 小泉城は江戸時代には陣屋の扱いながら、二重の堀で守られた大規模な城郭でしたが、明治に廃城となって城跡は住宅街に飲み込まれ、現在は予備知識なしにその痕跡を見つけるのは少し難しい城跡になっています。 そこで当記事では、小泉城とその城下の見所を地図や写真を交えて、ご紹介します。 小泉城とは JR大和小泉駅~大手枡形跡 ①市場の楠地蔵 ②大神宮常夜灯 ③金輪院 ④大手枡形跡 親子塚~外堀~主郭 ⑤親子塚 ⑥外堀(東側) ⑦外堀(南東側) ⑧主郭(城跡碑) ⑨主郭西端 ⑩主郭南端 高林庵~ナギナタ池~お庭池 ⑪高林庵 ⑫ナギナタ池 ⑬お庭池 小白水~小泉神社 ⑭小白水 ⑮土塁 ⑯小泉神社

    大和郡山のもうひとつの城下町・小泉城(小泉陣屋)の歩き方 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/03/24
    #奈良県 #大和郡山市 の #小泉城 ( #小泉陣屋 )は明治以降周辺が宅地化されかつての城跡を巡るのが少し難しいお城です。そこで城跡と城下町の見所を地図や写真でブログにまとめてみました。
  • 太子道沿いの屏風環濠~洪水多発地帯の環濠 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良盆地のほぼ中央に位置する三宅町から川西町にかけての地域は、寺川、飛鳥川といった大和川水系の河川が多く流れ込む低地帯で、中世以来の環濠集落が多く残る場所です。 三宅町にある屏風もそういった環濠集落の一つで、古代からの由緒をもつ町です。 屏風環濠とは 太子道 白山神社 杵築神社 忍性生誕碑 屏風集落 近隣情報 参考文献 屏風環濠とは 場所はこちらで、地域的には三宅町の北端部で川西町にも徒歩圏内の場所になります。 聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往来したと伝わる太子道沿いの集落で、里人が屏風を立てて往来する太子を送迎したことが、地名の由来と伝わります。 鎌倉時代の律僧で極楽寺住職として幕府からも重んじられた忍性の出生地としても知られ、生駒の竹林寺で出土した忍性の舎利器に1217(建保5)年、「大和国城下郡屏風里」で生まれたとあります。 古来より、人々が集住した地域で、室町時代には興

    太子道沿いの屏風環濠~洪水多発地帯の環濠 - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/03/17
    #奈良県 #三宅町 の #屏風環濠 は聖徳太子と深い所縁を持つ #環濠集落 。防衛設備として機能した環濠は洪水対策の請堤としても活用され平和な近世以降も残された。周辺には結崎、唐院、伴堂と多くの環濠集落が残る。
  • 結崎環濠散歩(2)歴史ある古社と惣村の町並み - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは 奈良盆地の中央にある奈良県川西町。 その町役場を中心に広がる結崎地区は、井戸、辻、中村と3つの環濠集落が約500m四方のエリアに集中するエリアです。 3つの集落は一口に環濠集落と言っても、そのルーツは違っており、井戸と辻は中世武家の居館を取り囲んだ環濠が集落化したのに対し、中村は特定の武家居館を中心としたものではなく、惣村が自衛・もしくは治水対策のため周囲を環濠で取り囲んだものとされます。 井戸と辻の環濠については、下記記事でご紹介しました。 今回は結崎地域の鎮守であった糸井神社と、市場、中村両集落を紹介します。 糸井神社~市場 中村環濠 参考文献 糸井神社~市場 結崎南西部、江戸時代まで大和川水運が活発だった寺川の土手に最も近い集落が、市場になります。 糸井神社~市場概略図(国土地理院HPより作成) 市場の名は、糸井神社の祭礼のときに市が立っていたことに由来するのではな

    結崎環濠散歩(2)歴史ある古社と惣村の町並み - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/03/14
    #奈良県 #川西町 の #結崎 は環濠集落の密集地帯。結崎の信仰の中核だった #糸井神社 には江戸の習俗を描いた絵馬が残りかつての神宮寺跡には平安時代作の観音立像を含む8体の大小仏像が秘仏として安置されている。
  • 結崎環濠散歩(1)~美しい水堀を残す井戸環濠・辻環濠 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良盆地の中央部に位置する奈良県川西町の中心地は、近鉄橿原線の結崎駅周辺から西に広がる結崎の町です。 この結崎一帯は、環濠集落が非常に密集している地域で、古くからの集落は全て環濠を備えていたと見られます。 川西町役場を中心とする500m四方だけでも井戸、辻、市場、中村の4集落のうち、市場を除く3つの集落に環濠が残り、寺川を西に越えると梅戸、唐戸、太子道(筋違道)沿いに南下して三宅町へ入ると屏風、伴堂と続き、周囲2kmの徒歩圏内にここまで環濠集落が集中している地域は、環濠集落大国の奈良県内といえどもここだけではないでしょうか。 今回、次回と結崎環濠と通称される川西町役場周辺の4つの集落を紹介します。 結崎環濠とは 井戸環濠 辻環濠 参考文献 結崎環濠とは 場所はこちらで近鉄結崎駅から西へ1kmほどの位置にあります。 結崎は古くは「夕崎」とも呼ばれ、その名は鎌倉時代の史料に

    結崎環濠散歩(1)~美しい水堀を残す井戸環濠・辻環濠 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/03/10
    #奈良県 #川西町 の結崎周辺は町役場周辺だけでも3つの #環濠集落 が集まる環濠の集中地帯。中でも井戸環濠と辻環濠は中世武士居館を囲んだ屋敷環濠で現在も一部に城郭のような石垣を備えた濠を残しています。
  • 喜連環濠(喜連城)・大阪屈指の難読地名・喜連の消えた環濠跡を歩く - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 環濠集落は、戦乱が激化した中世には全国各地に発生し、その濠は江戸時代以降も灌漑・治水に利用され、昭和の初め頃まではありふれた農村風景の一つでした。 しかし、戦後の経済成長で急速に進んだ宅地化によって、濠は埋められ、あるいは暗渠化され、多くの環濠が失われました。 大阪府の摂津・河内地域は、かつては多くの環濠集落が存在しましたが、宅地化の波に呑まれてほとんどの環濠が消失した地域です。 今回ご紹介する大阪市平野区の喜連環濠も、そういった環濠の一つ。 しかし、大阪市内にありながら、現在も環濠時代の多くの社寺や古民家と、中世以来の環濠集落に特徴的な道筋を残す町です。 喜連環濠(喜連城)とは 環濠内 北口地蔵 西口地蔵 南口地蔵 馬倉地蔵 東口地蔵 尻矢口地蔵 如願寺 楯原神社 中高野街道・屋敷小路 近隣情報 参考文献 喜連環濠(喜連城)とは 喜連環濠の場所はこちら。 大阪きっての

    喜連環濠(喜連城)・大阪屈指の難読地名・喜連の消えた環濠跡を歩く - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/03/07
    #大阪市 #平野区 の #喜連環濠 は戦国時代に #細川晴元 と争った #細川氏綱 の居城 #喜連城 をルーツとする #環濠集落 。濠は戦後姿を消したが中世以来の遠見遮断の町並みを残し大阪市内屈指の #古民家 集中地域。
  • 思ってたんと違う(14)血統より家の利益存続を重視した日本の「家」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 第二次世界大戦後、家父長制を制度化したいわゆる「家制度」がなくなり、個人主義的な価値観が広まったこともあって、代々受け継がれてきた「家」を意識する機会は、よほどの旧家や老舗の一族でもない限り、一般的な日人にはなくなってきていると思います。 日人にとって「家」とは何でしょう。 儒教的な家父長制に基づく家族・一族で形成される集団をイメージされる方も多いかもしれません。 たしかに、中国韓国など、儒教の影響が強い国でも、日と同じく「家」という概念はあり、家長の男性である家父長が強力な権力を持つ点では、共通した特徴を持っています。 しかし、日中国韓国の「家」は、文字で書けば同じでありながら、実は大きな違いがあります。 最も決定的な違い、それは父系の血統を絶対的な要件とするか、しないかにあります。 日の「家」と中国韓国の「家」の違い 男系血統を重視しない日の「家

    思ってたんと違う(14)血統より家の利益存続を重視した日本の「家」 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/03/03
    ブログ更新しました。日本における「家」の継承の在り方を見てみると、融通無碍こそ列島人最大の強みではないかと思ったり。文字で書けば同じ「家」でも大陸のそれとはずいぶん異質だと気付かされます。
  • 奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県 - 大和徒然草子

    古都奈良には、多くの魅力ある文化財が残されています。 奈良の文化財といえば、歴史ある古社寺を真っ先に思い浮かべる方も多いでしょうが、実は奈良には、様々な時代の特徴的な様式をもつお城が数多く残されているんです。 下図は、環濠集落も含め県内に約560か所あるとされる城跡のうち、当記事に掲載した城郭を中心に奈良盆地周辺のごく一部をピックアップしたもの。 奈良の城郭分布(国土地理院HPより作成) 奈良盆地周辺だけでも、中世初頭から武士の伝統的居館だった館城、丘陵、山岳地域に詰めの城として築かれた中世城郭、中世城郭から発展して領主や家臣の屋敷が並び支配の拠点となった戦国期拠点城郭、そして複雑な曲輪の構成と枡形などの強固な防衛設備を備えて地域支配の拠点となった近世城郭から近世陣屋まで、様々な時代に特徴的な様式をもつ城郭が、数多くあることがお分かりいただけるでしょう。 海なし県で大きな湖もないため、海城

    奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/02/24
    #奈良のお城 をまとめてみました。約560あるという #奈良県 内の #城郭 は中世の #館城 から #山城 #近世城郭 まで幅広く比較的近隣に集中しているため一度に回るのに便利。古代史跡に劣らぬ地域文化に身近な文化財です。