室町時代は一般に将軍権力が弱く、有力守護大名たちのパワーバランスによって、不安定ながらも秩序が守られていた時代です。 そんな室町時代で三代将軍・足利義満は、守護大名達の家督争いに介入してその力を分散し、巧みに対立する各守護家家中の派閥と合従連衡を繰り返すことで自らのプレゼンスを高め、室町時代を通じて最高の権勢を誇りました。 以後、この手法は歴代足利将軍たちの常套手段となり、六代・義教、八代・義政へと引き継がれていきます。 前回は、万人恐怖と恐れられた六代将軍・義教が嘉吉の変で暗殺された後、大和国で10年以上も続くことになった興福寺の権益・川上五ヶ関を巡る争乱について紹介しました。 義教の死によって復活した畠山持国は、管領になると大和の紛争に介入し、義教によって没落していた旧南朝方の越智氏や大乗院門跡だった経覚を支援して、大和の戦乱を再燃させます。 一方、中央政局で畠山氏と主導権を争う細川勝
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