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2007年4月16日のブックマーク (2件)

  • 法律は言葉の意味を決められない - 犯罪被害者の法哲学

    犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 実体法である刑法の犯罪構成要件は、人間の外形的な行動と、故意・過失という内面とを分離して捉える。これがデカルトに始まる心身二元論のパラダイムであり、主観客観二元論である。ここでは、人間の故意・過失という内面については、別の人間が直接に認識することはできない。そこで、例によって捜査官による自白の強要という政治的な問題に流れてしまう。 言語哲学から見てみれば、故意・過失という内面も、言語共同体で共有される規範にすぎない。故意とは言葉である。主観も客観も言葉である。故意・過失という言葉は、人間の行為に理由を与えるものとして要請される解釈上の契機である。実際に行為者の心の中でそのような状態が生じているか否かとは関係がない。そもそも、行為者の心の中の状態そのものが言語的にしか捉え

    法律は言葉の意味を決められない - 犯罪被害者の法哲学
    z0rac
    z0rac 2007/04/16
    法哲学の成果が司法に反映されないことの嘆き?
  • 「差別」を指摘されることについて考えてみた - kmizusawaの日記

    続・反エリート - DeSeanの日記 〜〜〜♪いや「産む機械」発言はその辺のオッサンオバハンがしてもTPOによっては顰蹙買いますって(^^;)ってのはおいといて、ちょっと思ったのは、この種の「問題発言や行為」を問題にする問題(ややこしいな)において真に怖ろしいのは、「その発言が不愉快だ」とか「問題がある」と指摘する/されること自体というより、そうやって指摘された(場合によっては「指摘した」)ことに対して、ときにはそれまで築き上げてきたすべてを失わなければならないところまで責任を問われ求められ追い詰められてしまう、というイメージが必要以上に一人歩きしているということじゃないかと。たとえば「差別主義者」というレッテルにせよ、他人にレッテル貼りをする行為自体は至る所で行われている。そういったレッテル貼りに対しては、しばしば「そんなもん気にするな」というアドバイスがなされ、実際スルーする人も多い

    z0rac
    z0rac 2007/04/16
    差別的言動は「間違いや失敗」じゃない。ともあれ、覚悟なしに倫理を振り回すのは危ないからやめた方がよい。