再公開はありません。
なんかなー。「コンビニで200円のおやつを買ってアフガニスタンの貧しい家族のために募金しなかったら人殺しかどうか」「救命ボートにあと一人しか乗れない場合どうするか」「救命ボートに感染したら死ぬかもしれない伝染病の人が同乗していたら」…倫理を考える際の殺すとか死ぬとかの極限状態の例え。弛緩している私らの倫理観を問うたり考えたりするために、私らの頭の中で殺されたり死の恐怖に脅かされたりする人たち。人の命を死に晒すような極限状態のたとえを持ってこないと倫理って語れないもんなのか? 生死に関わるような話じゃないと倫理について考えたことにならないのかなもしかしたら。 それはともかく。 そこで募金をしようがしまいがそもそも「私は生きているだけで間接的に人殺し」。このことを私は認めて生きていこうと思います。世の中には金がないとかその他理不尽な理由で死んでいく人や「もうちょっとたすけがあれば」死ななくてす
続・反エリート - DeSeanの日記 〜〜〜♪いや「産む機械」発言はその辺のオッサンオバハンがしてもTPOによっては顰蹙買いますって(^^;)ってのはおいといて、ちょっと思ったのは、この種の「問題発言や行為」を問題にする問題(ややこしいな)において真に怖ろしいのは、「その発言が不愉快だ」とか「問題がある」と指摘する/されること自体というより、そうやって指摘された(場合によっては「指摘した」)ことに対して、ときにはそれまで築き上げてきたすべてを失わなければならないところまで責任を問われ求められ追い詰められてしまう、というイメージが必要以上に一人歩きしているということじゃないかと。たとえば「差別主義者」というレッテルにせよ、他人にレッテル貼りをする行為自体は至る所で行われている。そういったレッテル貼りに対しては、しばしば「そんなもん気にするな」というアドバイスがなされ、実際スルーする人も多い
それは「女性の自己表現」を推進するフェミニズムのせいだ!それは「私はこう感じました」というような「I(アイ)メッセージ」を推進するアサーティブコミュニケーション(←知らない人は「アサーティブ」とか「アサーショントレーニング」とかでぐぐってください)推進派のせいだ!それは自分の権利だけを主張するように教え込む戦後民主主義教育のせいだ!若さゆえの過ちだ!ゲーム脳だ!日教組の陰謀だ! …とかなんとか言ってすませたくなるくらい、はっきり言ってどうでもいい感じ。それが犯罪を構成したり職場で隣の席に座っててどえらい迷惑とかいうのでない限り、人がどういうコミュニケーションの仕方を選ぼうが、どんな具合に自意識を垂れ流そうが、言われたことに反応しようが無視しようが言訳して墓穴を掘ろうが、認識がゆがんでいようが、開き直っていようが、コメント欄を閉じたりブログ閉鎖したりしようが、都合の悪いコメントを鬼のように削
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く