暮らし 表現の自由や性の尊重が陵辱ゲーム擁護に利用されると人間としての尊厳を蹂躙されていると感じる側はそうした達成自体に不信感を抱かざるを得なくなる:2009.06.19:大蟻喰の日記
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暮らし 表現の自由や性の尊重が陵辱ゲーム擁護に利用されると人間としての尊厳を蹂躙されていると感じる側はそうした達成自体に不信感を抱かざるを得なくなる:2009.06.19:大蟻喰の日記
もうこれ以上働きたくない。エクアドルで一緒に働いていた欧州某国のゲイ法律家と、海外でも有名な日本の過酷な通勤ラッシュの話をしていて「家畜輸送列車でもあんなにひどくねーぞオイ、日本のビジネスマンは貨物扱いか?」などと言われ、あっ、惜しい、近いっ、似たような感じーなんて言っていたのである。その時に電車内で痴漢に遭う、という話になり、ああ、よくあるねえ、わたしも誰か知らない人にシリを掴まれたりスカートの中に手を突っ込まれたことがあるなあ、と何の気なしに言うと彼は妙な表情になった。あ、やっぱりそういうことする男がいるのって変なのかなあ、と思っていると彼は妙な表情のまま 「エボリー、それってviolación(レイプ)じゃないか!」と言った。 スペイン語ではレイプのことを'violación'という、この言葉は同時に契約の違反や権利の侵害、冒涜という意味も持つ。単なる暴力については'violenci
今日だと http://anond.hatelabo.jp/20090621154203 とか。 俺も増田に書いた極論がブクマされた経験が一回あるけど嫌じゃね?毒を吐きたいから匿名のところでやってるのになんでいちいち衆目の目に晒すかね?真面目に書くなら同一人物かわかるブログで書いたり、名前を出して書いたりするさ。それなのにそれをしないで増田でやるのは悪口に近い極論かいてストレス解消するためだ。他の増田は知らんが、少なくとも俺はそうだ。それなのに一回はてブに載せられ批判されまくって困った。「それは俺が吐いた毒だからひどいのは当たり前だろ」と突っ込んでやりたかった。これを読むと「ストレス解消のために文章なんて書いて公開するな。自分の胸にしまっておけ」という潔癖症の人間もいるかもしれない。しかしイソップ童話のように意味はなくても「王様の耳はロバの耳だ」って穴の中に叫びたい人間だっているんだよ。そ
⇒2009.6.19: 日記 蹂躙の肯定はこのように具体的な形を取るか、と改めて閉口したのは確かです。当然、言論の自由は個々人の傷付く心と関係がない。言論の自由を制限しうる公共の利益は個々人の傷付く心と直接には関係がない。個々人の傷付く心の問題は人権問題ではない。 これは、古典的な自由主義の原則です。個人の傷付く心の問題は、自由の問題でも人権の問題でもない。貴方の傷付く心の問題は貴方が手当てすべき問題であり、この利権で動く国家の、それも法的規制において、傷付く心の手当てを要求するなど、自由の価値を毀損する論外の行為である、と。 少なくとも、表現規制を行政サービスと捉えることを退ける自由主義においてこの基本線は動かないのですが、しかし、個々人の傷付く心の問題は存在する。そして、その場所に、現存する差別構造が圧倒的な非対称性として作動している。自由で寛容な社会の差別問題とはそのことで、そのとき
いやはや。鬱です——怖がっている女性どころか、現実に性犯罪の被害に遭った人が他の被害者たちを励まそうとその事実を公表して開いているサイトに押し掛けて、お定まりの「やってから言え」「二次元無罪」を言い立てる。悪質な書き込みに困って、せめてHNを、と求めると、人に名乗ることを要求するならお前が実名を名乗れ、と開き直る。揚句は性犯罪の被害者なのはわかったから、さっさとその事実を受け入れて忘れろ、レイパーを許し、エロゲを許せ、と平然と書き込む。そういう奴が現実にいるを見ると、鬱にならずにいるのは至難の業です。擁護派の全てがそうだとは思いませんが、この国では強姦は罪ではないらしい——少なくとも罪に問うのは不当だと言う通念が相当に広く存在しているのは間違いなく、罪としても精々窃盗程度というのが常識として受け入れられているらしい。被害者側の、死にはしなかったが殺されたも同然と言う感覚とは到底折り合わない
⇒はてなブックマーク - minori kitahara column 北原みのり氏の文章を久しぶりに拝見した。「模範的被害者」「非の打ち所のない被害者」というものを世の中は求める。その場所から減点法で個別の被害者の「落ち度」や「非」をカウントする。それは権力の作動で、「犠牲者は無垢でなければならない」すなわち無垢にあらずんば犠牲者にあらず。だから世の中が一方的に押し付ける「犠牲者」という観念は、個別の被害者にとって、スティグマでしかない。 社会は観念としての「犠牲者」を必要とする。その犠牲者は無垢でなければならない。硫黄島に星条旗を立てた兵士が雄々しく戦った国の英雄でなければならないように。「犠牲者」の存在は環の一端でしかなく、その権力の環から外れた者は誰も守らない。男女の仲は文脈に規定される。関係性は、そうした男女の仲を規定する文脈をずらしていくものとしてあるが、しかし男女の仲は今なお
反=アニメ批評, 2009年春期アニメ第12話「軽音!」をもって、一応の最終回を迎えた京都アニメーション制作による2009年春期の大人気アニメ『けいおん!』。 今回はその『けいおん!』第12話において現れていた「反復」という主題に関して確認していこうと思います。 『けいおん!』第12話は、ひたすら何かを反復します。とりあえず、ここでは「反復」が「差異」を描き出している点については言及しません。ただ、反復に関してのみ、説明することが憚られるほど明らかなシーンから語らせていただけるならば、まずは例えば、家に忘れてきたギー太を取りに唯が駆けまわる場面。 部屋に戻り、ギー太を担いでは再び学校へ急ぐ唯は、第1話冒頭を反復しては、リビングで足を滑らせ、 ・第12話 ・第1話 いきおいよく玄関を飛び出したかと思うと、 第1話と同じ道を同じように走り抜ける。 途中、第1話の寄り道シーンが文字通り反復して挿
はてなブックマーク - だからずーーーーっと言ってたでしょ、俺は。 - NaokiTakahashiの日記 id:seijigakuto フェミニズム, 表現の自由 家父長制を推奨する表現物=差別問題として訴えるのは、電波すぎて真面目に相手する人は極少数に限られると思います / とはいえ、相手の攻撃対象を正確に把握する事は大事だと思います 2009/06/20 他にもこんな意見があるけれども。 id:orihime-akami 家父長制を叩くってのはさすがにやりすぎだなぁ。現代に流行る考え方ではないけど、十分多様性の範囲に入るでしょ。 2009/06/20 …… 家父長制批判こそフェミニズムの根本テーマじゃなかったっけ? いや、そりゃ最近はフェミニズムっていう思想も多様化しているけど、でもその根本には、「父親こそ一家の長であって、女性はそれに付き従うもの」という家父長制への批判がある。少な
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