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ブックマーク / shukutoku.blog89.fc2.com (9)

  • 淑徳大学@小川ゼミぼやき

    児童養護施設の仕事に関わると、年々環境が厳しくなっていることに気がつかざるをえない 入所児童にとっても 働くケアワーカーにとっても 気づくだけで、黙っていると、それが当たり前のことだと、いつの間にか自分が無力化して止まってしまうので、 まず愚痴り、ぼやくことにする 学習性無力感に陥らないために 4月、5月は、子ども措置変更が生じてしまう状況を見て臍を咬み、 職員の退職を聞いて落胆する日々だった 皆、一所懸命に、それこそ身体を張ってやっているのに、 こどもが担当にしがみつく行為は、担当を疲弊させ、相互に落胆するようなことばかり・・ もっと、職員が多く、もっと一人一人と関われればいいのに ため息というか、この憤りは、私がいつかどこかで通って来た道の景色によく似ている 30年前の精神科病院でよくあった構図である 親切なコメディカルと真摯な患者と退院に向かって努力すればするほど、立ちはだかった精神

    AFCP
    AFCP 2014/06/01
    "何も知らない人に問おう 17まで施設で過ごした子に、18歳での家庭復帰は最良か? と" そして知的障害児施設でも、似たような事態が起こってきているように感じる。
  • 淑徳大学@小川ゼミAD/HDと愛着障害がある際の服薬を巡って

    先にこだわっておく 頭でっかちかも知れないけれど、ね。 AD/HDを単一の神経発達障害と信じているわけではない。 精神科の診断、とりわけ、発達障害は人為的な線引きとしての「診断」であり、浮動すると考えている。 その立場でみると、AD/HDの扱いは毀誉褒貶甚だしい典型である。 だから、私が確固たる信念で診断していると誤解しないで欲しい。 また、いつも、処方をしていると誤解しないで欲しい。 以下は、置かれた環境や生活の文脈と、その方の抱える困難の関数として、服薬という選択ありと考えた場合である。 AD/HDの診断は直接の行動観察と人の体験の聞き取り、働きかけへの応答、家庭でのエピソード・学校でのエピソードでおおよそつく。 しかし、その人ごとの困難の形を知る上では、コナーズやカーズといった、自己評価や他者評価を多面的に行う質問紙とウエクスラー系のテスト内容が欠かせない。 また、そこまできて初め

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して88 精神科医にとっての震災4

    4 社会精神医学へのまなざし かつて私が研修医になった頃は、天下国家を論じた精神科紛争が、権力としての学に行き着くのを横目で見る時期でした。 社会から忘れ去られた、あるいはそのように振る舞うように「仕向けられた」ことすら意識出来ず、自責的に消えることを願う、あるいは他罰的に「精神運動性興奮」するのが、「精神分裂病」を生きることでした。 彼らと、地域の中の異界としての精神病院で、細々と治療に従事することをよしとしてきた立場には、声高で高邁な理念も、「社会復帰」という際には紛争と同じレベルの力の主張にしかなく、何処かしら胡散臭くしか映りませんでした。 それでも自分自身が健康な精神科医は、「リベラル」な市民の支持を元に、排除と人権を無視する精神医療政策を憂え、他人事のごまめの歯ぎしりをすればまだ生き延びることが出来ました。 その傍らで、健康な市民の影に脅え、生きていることを済まないと感じ、日々潔

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して87 精神科医にとっての震災3

    3 意味という問いかけが再生させる癒し手というあり方 今回も、災害支援という活動に従事することで、自分の診療行為が2者関係の精神医療であった事に気づいた精神科医も多かったと思います。 そこから、公衆、あるいは3者関係を意識した精神保健活動という文化が発展し続けます。 神戸以後の災害体験の中で蓄積された結果が、今回使用されたPsychological first Aid(通称PFA)の使用であったと思います。 マニュアルが、共通プラットフォームとして有用だということが、論を待たずに採用されたのも、単に今時の若者がマニュアル好き世代と言うことでは無いと思います。 社会的な文脈での支援が意識されたが故ではないでしょうか。 情報共有の重要性と守秘性への配慮との兼ね合いも混乱なく進んだように見受けます。 余りテレビを観る方でないので、見落としもあるかと思いますが、私利私欲としか言いようがないマスメデ

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して86 精神科医にとっての震災2 

    2 変わる精神医療、変わる精神医学 臨床家の働き方としてみると、神戸の体験は、日頃の学会活動や論文で感じる制約としての「学派」を超えた共働体験として、多様な気づきを日中にもたらしていたのだと、再考しました。 自分がケアの質に誠実であれば、臨床を精神科医同士や多職種間で共に語れるという感覚です。 思えば15年前には、精神医療にはそんな感覚すら乏しかった気がします。精神医療のすそ野も広がりました。 当時も、未治療者への往診を経験したり、お迎えに行ったことのあるフットワークの軽い精神科医はいました。 しかし、収容や治療のようなハードな精神医療より軽いため、日頃は対象としていない領域を扱い、人々の日常生活に一歩踏み込んだ支援を意識したことは重要です。 御用聞きであるアウトリーチに代表される「心のケア」は神戸の当時、ぎくしゃくしてました。 今回は保健師さんの鞄持ちとして精神科医が居ても、偏見から

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して85 精神科医にとっての震災1

    10月26-7日の精神神経学会を前に、自分の考えを明確にしておくのが良いと考え、書きかけのものを挙げます。 長いので、章ごとに切ります。 ある程度職能団体へのエールである部分もありますが、その限界も挙げております。 実際の支援者個々人は、組織として参加したにも関わらず、個人のいたみとして支援を引き受ける部分があります。 そこに生まれるのは、意見の相違や失意です。 間違った権力指向や原理主義者にならないために、私自身の心の整理という部分があります。 また、連帯をし、孤立を避けるという声でもあります。 精神科医にとっての震災 この半年を振り返る時、何よりも感じるのは、神戸以後、災害医療については15年の蓄積が確実にあったのだという感覚です。 平時と非常時の区別もついていたとも言えます。 少なくとも、村山政権時と管政権時とで政府や官僚機構には何の蓄積や進展も無かったことと比べると、精神医療の進歩

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して51 掘り起こすこと埋め戻すこと

    災害医療のトリアージは、取りあえず避難所を中心に、今医療的に手をあてておかねばならない人を想定したシステムです。 良く受ける誤解に、患者を引っこ抜いて医療化するのが役目、というものがあります。 この誤解は一般市民だけでは無く、医療班に派遣される人も持つものです。 原則は、地域で事例化せず暮らせていた場合は、避難所での不適応に可能な限り見守りやその場でのケアをして、事例化を防ぐというものです。 (事例化とは、ケースになるような扱いをするということです) 言い換えれば、心のケアとは、リソース不足に翻弄される被災者の事例化を防ぎ、地域社会に、埋め戻す作業です。 適応が悪くなり、避難所で問題となる人をそこに居続けられるように支援することですから、他の避難民に隠れるようにこそこそする活動部分でもあります。 そこには、常に緊張関係があります。 他の避難者の利害からすると、早く連れ出して欲しい人を居続け

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して49 2ヶ月を向かえて 心のケアは不要か

    2ヶ月を向かえました。 時間の加速を意識します。 医療福祉関係者に限定した話題かもしれませんが、懸念を伝えたいと思います 神戸の時と比べると、やはり、回復の遅れが顕著です。 規模が大きいからです。 そうは言っても、救援活動は地元のシステムへの移行のあり方を模索する段階に入っています。 その中で、 「こころのケアは不要」 という声があります。 「ここにはPTSDがないから」と いう声もあります。 「保健師が居ればよく、臨床心理士は要らない」 という声もあります。 このような主張には一理あります。 確かに事態は、地域保健システムの崩壊なのですから、感染症・高齢者・母子・精神障害という保健所の4大機能を補完することが最優先です。 それらは対住民的には保健師に体現される業務です。 行政がリストラの一環で減らしてきた保健師の活動が改めて重要なことが見えたのが今回でした。 (神戸の時の東京都の状況と同

  • 淑徳大学@小川ゼミ震災に際して33 何を分かち合うか

    専門職の方へのコメントです。 「デブリーフィングはやってはいけない」という話を、そこかしこで耳にすることが出てきました。 私は、総論賛成、各論反対、という感じがありますので、気になる点を取り上げたいと思います。 解離性障害の増加で再注目されたジャネのカタルシスを知っている人、あるいは精神分析の素養がある方は、 デブリーフィングを、被災者に災害についての体験と感情を表出させるカタルシス療法と理解しやすいと思います。 また、実際、デブリーフィングにおいては、この視点も強調されます。 例えば『災害と心の救援』でオースティンは、大規模集団のデブリーフィングの目標をつぎの4つとします。 ①コミュニティ全体が心的外傷から立ち直りつつあることを強調して、 コミュニティの力と勇気との同一化による癒しを促進する。 ②相互に感情を表出する手段を提供し、各個人が経験しつつある感情を 正常化することによって、被災

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