全ての児童生徒には多様なニーズがあることを前提とし、そもそも現在の学校教育システムがそれらのニーズに対応できる構造になっているのかを確認し、多様なニーズに対応できるように、学校教育システム自体を変容していく過程。
私は全てを0か100かで考えてしまう傾向がある。 3年ほど前に、「インクルーシブ教育の実現を目指す私自身はインクルーシブな人間だろうか。」と考えたことがある。 私自身が本当に誰もが異なることを前提とできているのだろうか。 結果、「できていない」と思った。 私自身、苦手な人がすごく多い。そもそも人と話すのはあまり得意ではない。気を使いすぎて疲れてしまうから。 でも、自分と異なる人間を受け入れることができない私が「インクルーシブ教育」なんて言っていいのかなあ、と思った。 だから、一旦、「来るもの拒まず去る者追わず」をやってみよう、と思った。 つまりどんな人でも「この人苦手だわ」と思っても、まずは話してみよう、理解しようとしてみよう、とトライしてみた。 結果、思っていたよりもずっとパワーを使い、疲れ果ててしまった。 それも私は苦手な人を本質的には受け入れることはできなかった。 そんな自分にイライ
「「障害者」というラベルを貼ることの功罪という問題で確かに核心に触れる論点である。つまり、差異に注目することが格差の拡大をもたらす場合がある反面、差異を無視することが格差の拡大につながる場合もある。ミノウはこれを「差異のジレンマ」と名付けている。差異、障害者分野でいえば、障害(disability)、つまり、身体的・感覚的・知的機能の制約を持ち、社会的に不利益を受けてきた集団や個人に対して、その不利益の是正を行おうとする場合に、差異、すなわち障害に着目せざるを得ない。しかし、それは逆に差異を強調、固定化することにもつながる。日本での障害者の雇用率や米国のアファーマティブアクションと呼ばれる積極的差別是正措置には常に、差異(障害や人権)を法律や行政措置が制度化してしまう危険性がつきまとう。それを避ける1つの方法は確かに、北欧やILOが述べたように、万人を対象にするという普遍化である。例えば、
「普通を疑う」 でも書いたテーマですが。 重複しますが何度でも書きたくなるテーマなのです。 よく「そろそろ我慢を覚えた方が良いですね」「我慢を覚えた方がこの子のためになりますね」などの言葉を聞く。 そしておもちゃをとられた子や、ぶたれても泣かない子に「我慢してえらいね」との言葉も聞く。 ----------------------------------------------------------------------------------- 私がよく出会う子どもたちは、我慢をすることが苦手な方が多い。 いわゆる「発達障害」のある子どもたち。 例えば、つまらない授業や分からない授業の時は席を立つ。 自分の思い通りにならない時には、泣き叫んででも思い通りにしようとする。 やりたくない課題は、回避する。 ゲームで負けた時は、怒って物を投げたり、人にあたったりする。 衝動性の高さや、こだ
集団の中で誰かに何かを決められて、やりたくないことをやらなくちゃならなかったりする状況は本当に耐えられない。 自分がやりたいことを、自分で集団を動かしてやるのは好き。つまり、自分で目標設定ができている場合は動けるんだけれど、目標設定ができていない場合(=自分にとって利益がない、興味がない、つまらない)は大変。 「みんながやっているからやる」とか「仲良くしなくちゃだめ」みたいな、自分にとって利益が見えない状況がすごく嫌だった。自分がすごくやりたい「何か」のために一緒にやったり、仲良くするのはできるんだけれど。
システムは、集合体や組織における役割をそれぞれが円滑に遂行したり、それによって最低限の質を担保したりするためのもの。だと思っている。
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