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ブックマーク / flat.kahoku.co.jp (5)

  • 余震の中で新聞を作る85〜引き裂かれる思い/南アルプス山麓で その2

    12月1日、新宿発の特急あずさ17号に揺られて山梨県の小淵沢(北杜市)に着いたのは、午後3時。およそ半年前、初めて訪ねた6月21日の空には、甲斐駒ケ岳(2、967メートル)が大きくそびえていましたが、暗い鈍色の雪雲がその姿を塗り込め、南アルプス山麓の厳しい冬の訪れを告げていました。 「雪が降ったよ。うち(南相馬市鹿島区)から持ってきたこのトラックは、タイヤの径が小さいので、冬道は無理かもしれないな」。駅まで迎えに来てくれた小野田等さん(59)は、仮住まいをする同市白州町に向かう長いループ状の下り坂を運転しながら、「雪は少ないが、冷え込みと凍結がすごいそうだよ。見てごらん、こっちのトラックはタイヤが大きいだろう」 小野田さんは、計9ヘクタールの田んぼとイチゴのハウスを営んだ地元を、昨年3月11日の津波被災と福島第1原発事故後の厳しい風評、東京電力との損害補償の交渉難航という三重の苦渋の末

  • 余震の中で新聞を作る62〜卒業式と5本の桜

    3月23日、仙台を朝早く出て、国道6号を南に向かっていました。震災で崩れた道路の復旧工事が今も続く宮城県山元町から相馬市を過ぎ、南相馬市鹿島区に入っていつも通る歩道橋のそばで、白い大きなものが宙に浮いているのが見えました。漁船です。津波で跡形もなくなった浜の漁港から3キロ近く流されてきた漁船5、6隻がそのままずっと国道脇に、記憶のモニュメントのように放置されていました。1年が経っても何も変わらぬ被災地の姿を象徴するもののように。しかし、年度末になってようやく撤去の予算が執行されたのでしょう。 この朝見たのは、撤去される最後の1隻。この1年の重さがうそのように、軽々と大型のクレーンに吊るされ、どこかへ運ばれていこうとしていました。風雨にさらされた後の修理は可能なのか、それ以前に漁船の主は健在でいるのか、だとしてもすべてを流された浜で、しかも福島第一原発事故の汚染水の影響で漁獲自粛が続く海で

  • 余震の中で新聞を作る33〜飯舘村へ/東京で「帰村」を訴える

    7月10日の日曜、正午過ぎ。炎暑のJR東京駅・新幹線ホームに、福島県飯舘村の菅野典雄村長と佐野ハツノさん(62)が降り立ちました。訪ねる先は、東京大学の弥生講堂一条ホール。午後に開かれる「中山間地域フォーラム」の話者として2人が招かれたのです。 全村挙げての計画的避難をほぼ終えて、福島市内の飯舘村飯野出張所で「2年後の帰村」を目標に掲げた村政が始まり、それとともに新しい仕事も村は請われるようになりました。 福島第一原発事故による放射能災害が東日各地に広がる中、全村避難を余儀なくされた飯舘村の体験を原点として聴き、「帰村」をどんな方法で支援できるかを考えよう-。この日は、そうしたテーマを掲げた中山間地域の自治体関係者や研究者らの集いでした。 被災地の訴えがいかに、日の他地域に暮らす人々に共有されるか。衝撃的な見出しや数値を通してではなく、当事者が自らの声で、ありのままの日常を伝え、

  • 余震の中で新聞を作る30〜飯舘村へ/苦渋の選択

    話は、4月に戻ります。福島県飯舘村飯樋の農業佐野幸正さん(64)、ハツノさん(62)を震災後、初めて訪ねたのは12日でしたが、来取材を予定していたのは、前日の11日でした。 村に到着する前の午前中、既に首相官邸から飯舘村を含む「計画的避難」の区域指定が発表され、急きょ私はそちらの現地取材に関わることになったのでした。 長い1日となったその日、耳にした多くのことも、飯舘の人々のもうひとつの訴えとして、記録しておかねばと思います。 村役場に着いたのが昼ごろ。騒然とした状況への想像はあっさり裏切られ、役場内外は静まりかえっていました。1台、玄関に車が止まり、女性が村職員に何事かを頼んで、段ボール箱を積み込んでもらいました。後部のトランクには荷物がいっぱいです。 「(福島県)富岡町から3月12日の朝、(福島第1)原発の1回目の爆発が起きる前に、だんなの飯舘の実家に避難してきたんです」と、

  • 余震の中で新聞を作る29〜飯舘村へ/怒りの夜

    4月30日夕、福島県飯舘村の役場周辺は、人と車でごった返していました。村を東京電力の鼓紀男副社長らが訪れる予定になっていたからです。福島第1原発の事故が起きて以後、東電の経営幹部が住民とじかに接する機会は初めてで、会場の飯舘中学校体育館には、午後7時の開会を前に1000人を超える住民が集まっていました。 私はその取材のために村に行ったわけではなく、たまたま同日午後に同村飯樋の農業佐野幸正さん(64)、ハツノさん(62)夫婦を訪ね、村にとって大きな出来事がある、と聞いたのでした。 その3日前、村の有志が独自に催した「美しい飯舘村を還せ! 村民決起集会」に、約200人が参加したそうです。『「国は東電を生かすために村の6000人を殺そうとしている」「美しかった村をそのままの形で返してほしい」などと怒りをぶつける声が相次いだ』と伝えた紙記事を読み、佐野さん夫婦がどのような思いでいるか、気にな

    AJYA
    AJYA 2011/06/25
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