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ブックマーク / oda-makoto.hatenadiary.org (2)

  • 言論の自由について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    論文執筆で忙しいさなかですが(いつのまにか次の締切が近づいてきました)、田母神前空幕長の更迭問題に絡んで、「言論の自由」についての言説が飛び交っているようです。この言葉の使い方が前から気になっていたので、ちょっと言論の自由について書いてみたいと思います。 まず、マスコミや歴史学者が田母神前空幕長の「論文」と称するものの「内容」を、「事実に反する」とか「中学生以下」と批判しているのに対して、ものを自由にいう言論の自由はないのかと怒っている人がいます。今回の問題に限らず、ブログで書いたことを批判されると「言論の自由はないのか」と言ってしまう使い方は前から気になっていました。言論の自由は、その内容にかかわらず、意見を公表することを妨げることに対する「自由」の主張です。公表した後で批判されるのは当然引き受けなければなりません。ある言論の「内容」に対してはあくまでも言論で対するというのが「言論の自由

    言論の自由について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
  • 正義と倫理のあいだについて - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    レヴィナスの話で好きなのが、裁きと顔の関係の話です。ポワリエとの対話の、『暴力と聖性』(国文社、1991年)のなかで、レヴィナスは次のように言っています。 ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり、裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情など斟酌してはならない、というのです。……けれども別の聖句があります。……「主はそのお顔をあなたに向ける」という聖句です。ラビたちは彼らの流儀で[この矛盾]に答えています。「判決を下す前には決して顔をごらんにならない。けれどもひとたび判決が下されたのちには、あのお方は顔をごらんになるのである。」(『暴力と聖性』160頁) レヴィナスのこの言葉を知ったのは、2001年に出版された内田樹さんの『ためらいの倫理学』によってでした。内田さんは、裁き人が被告の顔を見てはならないのは、「顔」が誰によっても代替し得ない

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