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印刷史に関するFeZnのブックマーク (10)

  • 【連続講座】明朝体の教室 第17回 スペシャル回

    1、小宮山博史×鳥海修 オンライン特別対談「明朝体ってどういう書体なのか」 2、鳥海修×参加者の質問 昨年12月で「カタカナ編」の最終回をむかえた「明朝体の教室」の17回を、対面形式で開催します。 12年続いてきたアサビでのタイポグラフィセミナーの打ち上げです。小宮山博史氏と鳥海修氏の「明朝体スペシャル対談」を上映、第2部はみなさまの質問に鳥海さんがおこたえします。ふるって質問してください。 定員数を絞り、感染症対策を万全にした上で、明朝体について参加者のみなさまと語り合う機会になればと思います。 みなさまのご参加をお待ちしています。 *お申し込み受付は、3月11日(土)12:00から開始いたします。 *今回は参加費無料/定員50名様先着順となりますので、早めのお申し込みをおすすめいたします。 前回の講座をまとめた冊子〈明朝体の教室16〉とバックナンバーも会場で販売いたします。 今まで通り

    【連続講座】明朝体の教室 第17回 スペシャル回
    FeZn
    FeZn 2013/04/03
    まだ空席あるかな? でも僕は物理的には可能だけど体力的に余裕ないかなー。
  • 明朝体が広く使われるようになったのはTimesに合わせるため説? - 日本語練習虫

    1920年代に開発され1932年にTimes紙でデビューした、英国モノタイプ社の活字書体「Times」について、《明朝体が広く使われるようになったのは、英字Timesに合わせるためだ》といふ説があるといふんだが。 日語明朝体活字といふモノに限っても、現在我々が「オールドスタイル」と呼ぶ明朝体活字書体は19世紀のうちにあらかた開発が終ってゐる。確かに円ブームはTimes書体誕生の頃から始まるわけだが、19世紀末を迎えつつある『日清戦争実記』の頃に秀英四号が独自書風を確立し、続けて1898年(明治31年)に築地体後期五号仮名がデビュー。 20世紀を迎えた『日露戦争実記』の頃には、「現在我々が目にしている明朝体活字」が押しも押されもせぬスタンダードだった。 …… そんな日語明朝体活字、実は明治10年代に基書体の地位を脅かされたことがある。弘道軒清朝体(楷書体活字)が東京日日新聞の文活字

    明朝体が広く使われるようになったのはTimesに合わせるため説? - 日本語練習虫
  • 小山初太郎「活字型ノ説話」の一言 - 日本語練習虫

    国会図書館も印刷図書館も持ってゐない、印刷局研究所の『印刷局研究所調査報告』第一号(明治四二年)を北海道大学附属図書館が所蔵してゐると知り、id:karpaさんにご協力をいただいて、同誌所収、小山初太郎「活字型ノ説話」の複写を取得した。 矢作勝美『明朝活字』も、矢作『明朝活字』を通じて間接的に「活字型ノ説話」に触れてゐる小宮山博史「明朝体、日への伝播と改刻」(『と活字の歴史事典』asin:4760118918)も言及してゐない小さな一言に、引っかかりを感じてしまふ己。 小山初太郎「活字型ノ説話」の冒頭は、 我カ日ノ活字型ハ各製造所毎ニ大同小異ナルカタメ植字上無益ノ手数ヲ要シ時間ヲ徒費スルコト多ク自然印刷物ヲ高価ナラシムルヲ以テ近来活版事業者間ニ全国ノ活字型ヲ一定センコトノ希求アルハ至当ノコトヽ信ス ――と書き出されてゐる。 度々引用される「著名ナル活字製造所ノ活字数種ヲ米国ぽいんと式

    小山初太郎「活字型ノ説話」の一言 - 日本語練習虫
  • 新聞の活字は天地を縮めたのではない: ほぼ文字についてだけのブログ

    トナン・大熊肇の(ほぼ文字についての)覚え書きです。 充分に検証していないこともありますので、眉につばをつけてご覧ください。 連絡先:hajimeアットマークtonan.jp(「アットマーク」を「@」に変えてください) 『文字の骨組み』2刷の間違いとご指摘 『文字の骨組み』初刷の間違いとご指摘 『文字の組み方』訂正箇所 新聞の活字は,戦時中に紙などの物資が足りなくなり,限られた紙面にたくさんの文字を詰め込むために天地を縮めたのだと思っていたが,実際はそうではなく左右を広げたものだった 昭和16年(1941)12月5日の朝日新聞夕刊に次のような社告が出ている。 明日より新活字を使用 社は國民視力保健の立場から昨年来記事面活字の改良につき鋭意研究中のところ、今回新活字の完成を見ましたので、明朝刊紙上よりこれを使用することになりました、新活字はこの社告に見らるる通り従来より大きく読みやすくなり

  • 印刷の歴史

    [はじめに] 日印刷史ミニ版 ドイツニュルンベルクでグーテンベルクが活字印刷に成功、旧約聖書の「ここに光あり」の句を叫んだのは一四五○年ごろとされる。西欧はルネッサンス期、わが国では足利義政の室町前期末に当たる。すでに九世紀の中国で、素焼き活字が発明されたが普及しなかった。 日では平安後期から板木を彫った印刷・木板刷りが仏典に行われた。奈良興福寺の春日版、高野山の高野版、比叡山の比叡版、醍醐寺版、浄土教版・・・が知られている。 戦国期の天正十八年(一五九○)、天正天正九州三大名の青年遣欧使節団伊東祐益ら一行が、イタリアの宣教師ヴァリニアノらと活字印刷機をたずさえて長崎港に帰国した。しかし秀吉の禁教令のため荷ほどきできず、島原半島の加津佐(長崎県南高来郡加津佐町)で小規模に印刷をはじめた。 日初の活字は翌十九年、右の肥前加津佐にあったイエズス教会の神学校で和紙印刷された『サントスの御

  • インタビュー「写真植字の時代」(DTPニュースvol.12)

    今月のDTPニュースは、スタジオを飛び出し、特別インタビュー番組をお届けいたします。 お話を伺ったのは、現在も写真植字でご商売をされている株式会社プロスタディオの代表取締役・駒井靖夫氏。1941年生の同氏は1960年代初めから写植と関わっており、この道すでに50年。DTP全盛の現在も、手動写植機「PAVO-KY」を駆使して顧客の厳しい要求に応えているとのこと。杉浦康平や戸田ツトムといった著名デザイナーの仕事にも多く携わっている同氏の、「文字に対する思い入れ」が伝わってくるインタビューをご覧下さい。写植機独特の動作音も懐かしくお楽しみいただけると思います。

    インタビュー「写真植字の時代」(DTPニュースvol.12)
    FeZn
    FeZn 2009/10/03
    「文字の形が好き」「中明OKL」「直しが少ないほど料金は高かった(良い仕事が認められた)」
  • 「活字印刷の文化史」梓行記念セミナー - 実験る~む

    昨日の土曜日に印刷博物館で行われた、表題のセミナーに行ってまいりました。 印刷博物館自体が久々で、終わった後はしばらく見て回れるかと思ったんですが見通しが甘かったです。うう。 2009年8月29日セミナー関聯告知」(トップから辿るには「図書外装設計」より)に記されているので省略しますが、とりあえずざっくりと、当日起きたことなどを以下に箇条書き(覚え書きともいう)。 事前に資料印刷必須、とのことでしたが、会場に用意されてました。というか、なんか用意していった資料より明らかに分厚いので頂戴せざるを得なかった。字游工房の鳥海さん直々に配られてました。 司会はその鳥海さん。あくまで司会だったので何か語られる、ということはなかったです。なんだか府川さんに振り回されてたという感じもしましたが 14時わずか手前で開始。終了時間の記載がなかったので16時くらいまでかなと思ってたものの、そんなことはなく17

  • Amazon.co.jp: 「読者」の誕生―活字文化はどのようにして定着したか: 香内三郎: 本

    Amazon.co.jp: 「読者」の誕生―活字文化はどのようにして定着したか: 香内三郎: 本
  • Amazon.co.jp: 活字文化の誕生: 香内三郎: 本

    Amazon.co.jp: 活字文化の誕生: 香内三郎: 本
  • 印刷史の盲点 - 記憶の彼方へ

    『印刷史/タイポグラフィの視軸』(asin:4916043820)の「近代日活字史の基礎知識」で、府川充男氏は江戸期の書体に関して当時の身分差別の観点から次のように述べる。 江戸期に、庶民が明朝体の書物を読んだりすることはまずありえませんでした。つまり明朝体は智識階級だけが読む文字だったわけです。(22頁) この一文に関する脚注にはこうある。 庶民の子供が通う手習いで教わる漢字は恐らく数百のオーダーを出なかった。また漢字も行草が基であって、日常読み書きならわす文字は行草プラス仮名が主体であった。草子の類いの紙面に現れる漢字もせいぜい数百、しかも庶民を対象とする書物では漢字にすべて振り仮名が付いていた。対して武士の子弟は三字経、千字文から始まって徹底的な漢字教育を受けた。漢文、漢籍の文字は楷書ないし明朝体であった。武士や僧侶と庶民とでは、<文字生活>に階級的な隔絶があったのである。(2

    印刷史の盲点 - 記憶の彼方へ
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