勝頼は天正2(1574)年5月、2万5000の兵を率いて出兵すると、高天神城を包囲。城主の小笠原氏助は、家康に援軍を頼むために、ただちに使者を送っている。だが、武田軍が2万を超えるのに対して、徳川軍はわずかに8000人である。家康は信長にさらに援軍を要請するという事態になった。 援軍が来るまで、降伏することなく抵抗した小笠原氏助だったが、勝頼は攻勢をかけながら、開城を促す交渉も行っていた。交渉役を担ったのは、信玄の治世においても、軍事と外交を担った穴山信君である。 氏助もギリギリまで粘ったものの、落城寸前になっても、援軍が得られず、開城にいたっている。 織田信長「武田勝頼は油断ならぬ敵」 『信長公記』では、戦況の報告を受けて、信長が吉田城に引き返す様子が記述されている。 「6月19日、信長父子が今切の渡しを渡ろうとしていたとき、小笠原長忠が逆心を起こし、総領の小笠原某を追放して、武田勝頼を
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