鶴見俊輔さんのこと ベ平連でよく顔を合わせる人のなかには二人の鶴見がいた。一人は鶴見俊輔、もう一人は鶴見良行、それで私たちは前者をシュンスケさん、後者をヨシユキさんと呼んでいた。良行さんは後に、『バナナと日本人』という歴史に残る名著を書き、学問の世界に新しい流れを作り出したが早世した。年長の鶴見さんは天寿をまっとうしたが、ここでは昔通りに俊輔さんと呼んでおこう。 ベ平連のアメリカ脱走兵援助の組織、ジャテックの責任者を仰せつかった私は、三日にあげず関西方面の「元締め」だった俊輔さんと連絡をとっていた。在所不定の私と違って、決まった曜日の決まった時間にはかならず研究室にいる俊輔さんには、こちらから電話をする。まだ携帯電話などというものはなかった。電話にはかならず若いきれいな声の女性が出て取り次ぐ。彼女も私の声を覚えて名前など聞かずにすぐに取り次いだ。どのような事柄か飲み込みのはやい聡明の感じが