相生橋を背に「あの日」見た光景を証言する蔵田淑子さん。「人の気配は なく『原爆のにおい』としか言えない、においが満ちていました」 原爆投下の翌日、ドームそばの相生橋で米兵捕虜が電柱に吊(つ る)されていた―。「原爆秘話」の一つである。逃げるところを市 民につかまり、なぶり殺されたらしい…。口伝えで語り継がれるう ちに尾ひれもつき、また、それをまことしやかに話す人がいる。 米軍は長い間、自国の兵士がキノコ雲の下にいたことを否定して いたが、一九八三年に「陸軍八人と海軍二人の捕虜が原爆で犠牲に なった」と公式に認めた。が、実数を含めてなぞは多い。市が七一 年編さんした『広島原爆戦災誌』には「被爆直後、死体処理前に、 相生橋東詰め北側の電柱の柱の下に、アメリカ兵の捕虜が死んでい たが…」と、簡単な記述が残るだけだ。 電柱に針金でくくる 「ええ、若い兵隊さんが電柱の根元に
(2006.7.28) 長崎市などでつくる長崎平和推進協会が出した一枚の文書が今年、大きな波紋を引き起こした。「以下のような政治的問題への発言は慎んでほしい」と、自衛隊イラク派遣や改憲論議、歴史教育など八項目を挙げて、被爆体験を語る証言者たちに発言の自粛を促した。 ■政治色を懸念 証言者三十八人が所属する「継承部会」で一月に文書が示されると、地元の市民団体や日本被団協が「言論規制だ」と撤回を要求。協会の事務局側が「混乱を与えた」と六月下旬の総会で撤回するまで、証言者たちはいわば板挟みとなり揺れた。修学旅行生を中心に昨年は千百回の証言機会を協会から仲介された。 あらためて「自粛」文書を出した真意を多以良光善事務局長(57)に尋ねた。「年に数件とはいえ証言を聞いた学校から『中立性を保って』との要望がある。政治的に意見が分かれる問題は触れない方がいいし、協会が政治色のある団体と誤解されてはと心配
(2006.7.30) 市街地の真ん中に「星条旗」が翻る。JR岩国駅の南約二キロに広がる米海兵隊岩国基地。銃を携帯した隊員が正門で目を光らせる。「こんな光景を見てジレンマを抱かない被爆者はいないでしょう」。岩国市装束町に住む画家の島崎陽子さん(62)は、基地を背に立つと思わずため息をついた。 パキスタン公演に向け、けいこに打ち込む東京外国語大の学生。「『ゲン』を通して、被爆者の願いを核保有国の市民に伝えたい」 ■基地との共存 空母艦載機移転計画に揺れるイワクニは、被爆地ヒロシマとは約四十キロの距離にある。被爆者健康手帳の所持者は千三百二十余人。山口県内で暮らす被爆者の四人に一人に当たる。 島崎さんは、広島市昭和町(中区)の自宅で被爆し、姉を失った。建物疎開作業に動員された十三歳の姉は、収容先で島崎さんの名前をうわごとのように繰り返して息を引き取った。被爆の翌年に家族五人で岩国へ転居。画家だ
(2006.7.6) 「もはや戦後ではない」。政府の経済白書が宣言した一九五六年、広島・長崎の被爆者の苦しみと、力強く生きようとする姿をとらえた映画が製作される。「生きていてよかった」。前年に発足した原水爆禁止日本協議会が製作費を工面し、ドキュメンタリーの名作を戦前から手掛けた亀井文夫が監督。四十九分のモノクロ作品ながら、広島をはじめ全国四百二十五カ所で上映され、被爆者援護への世論を後押しした。 広島市東区に住む高野(旧姓村戸)由子さん(73)は「電車のシーンのはず…」とビデオ化された作品で自身と対面した。 カメラは、原爆ドーム前を走る市内電車の乗客として写し、手術しても隆起したケロイドをとらえる。そして終盤、「歓迎 原爆被害者の国会請願団」ののぼりに囲まれた一群に交じる村戸さんの顔を再びクローズアップし、訴えの声が流れる。 「生き残った者の心の叫びは、自分の体を完全な昔の自分の姿に治した
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く