前回<更新期の文学/大塚英志(1)> 先日は大塚英志のアプリケーションによる文体作成云々に呆れましたが、あの後の章を読んで少し感心しました。 田山花袋『蒲団』が女弟子に逃げられた作者の自己告白だったように、いまのライトノベルや『電車男』にあるのは、近代のやり直しとしか思えない「私」カミングアウトに過ぎず、それは自然主義ではないか、と大塚英志は主張します。 この主張は全く正しいと思える。 《近代の日本文学はそのものが「自意識」の存在証明のキモチ良さを与えることばとしてある以上、本人が思う以上にたいていの「文学」の根っこは日本型「自然主義」にあり、実はこてこての「近代文学」なのである。佐藤友哉なんていじましいぐらい自然主義だって。》−−−第六章 「匿名化する文学」と「公共の文学」 その上でネットを含め中途半端に近代を反復している今の日本人は、もう一度近代化を徹底すべきだと大塚は言います。 実は