なぜ元離宮と呼ばれるのか 明治元(1868)年2月3日、二条城に明治天皇が行幸されて、徳川幕府討伐の詔(みことのり)を発せられました。 薩長を中心とした討幕軍は、ここから江戸に進発します。 そう、遡ること260年前に、徳川家康が京での幕府の拠点として造築した、その在処からです。 徳川家は逆賊の恥辱を受け、江戸城の分身ともいうべき二条城の権威は完全に断たれました。 朝廷に召し上げられた二条城は、その後すぐに太政官代が置かれ、明治17年には宮内省所管となり『二条離宮』と名付けられたのです。 城下町のメインストリート 家康によって建てられた二条城の最初の目的は、典儀の舞台として使用するためのものでした。 ですが息子の第2代将軍・秀忠の時代、元和5(1619)年に、大阪城が修築に入り伏見城が廃されることになると、二条城の政治的役割はいやがうえにも高まります。 たとえば、洛中における二条城全体の配置