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  • 戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子

    当ブログでは鎌倉時代から江戸時代までの大和武士たちの活躍や動向を、当時の畿内史と関連付けながら21回にわたって「大和武士の興亡」として奈良の戦国史を詳しく紹介しました。 今回は奈良の戦国史について切り口を変え、戦国の大和で活躍した大和武士の一族たちに焦点を当てて、ご紹介していきます。 最初にご紹介する大和武士の一族は、戦国末期に大和国の覇権を握って近世大名へと躍進することになる筒井氏です。 筒井氏の出自 筒井氏歴代 順覚(南北朝~室町初期) 成身院光宣と順弘、順永(河上五ヶ関を巡る抗争と応仁の乱) 順尊、順賢(筒井氏の没落と大和復帰) 順興(筒井氏の戦国大名化) 順昭(大和を武力統一した最初の覇者) 順慶(近世大名化した最後の官符衆徒棟梁) 定次(筒井宗家最後の当主) 正次、正信(徳川氏旗・筒井家) 筒井氏ゆかりの旧跡 筒井城 椿尾上城 郡山城 筒井順慶墓所 筒井氏関連年表 南北朝~戦国

    戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2024/06/11
    転職とは!忙しかったですね😀👍
  • 古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子

    中世の大和国では、奈良の興福寺が事実上の守護として君臨し、在地の国人領主である武士は興福寺・春日大社の衆徒、国民として組織されてその傘下にありました。 しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての戦乱で、国人たちは寺社領を蚕して勢力を蓄え、興福寺の制御から外れて独自の動きを取るようになります。 南北朝時代以降、大和で特に大きな力を持つようになった国人が、筒井氏、古市氏、箸尾氏、十市氏そして越智氏でした。 越智氏は大和源氏の一流を称して高市郡越智(現高取町)を拠に、吉野南朝の主力となって勢力を伸ばし、15世紀末の戦国時代初め頃までは大和における幕府(北朝)方主力として勃興した筒井氏をしばしば圧倒した国人です。 そんな越智氏の拠・越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を、前回は越智氏の足跡とともにご紹介しました。 今回ご紹介するスポットは、越智氏の築いた中世山城、貝吹山城です。 15~16世紀に

    古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子
  • 南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1) - 大和徒然草子

    戦国時代の大和国(現奈良県域)では南北朝の争乱以来、激しく抗争する二つの国人がいました。 一つは添下郡筒井(現大和郡山市)を拠として、戦国後期に大和の覇権を握る筒井順昭・順慶父子を輩出した筒井氏。 そしてもう一つが、高市郡越智(現高取町)を拠とした越智氏です。 越智氏は大和南部を中心に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方主力として活躍した他、応仁の乱では西軍・畠山義就軍の中核兵力として大和、河内、京都を転戦し、一時は筒井氏ら東軍勢力を大和から駆逐して北和にも勢力を広げました。 戦国後期には一族間の争いもあって衰退し、近世初頭に筒井順慶の策謀と家中の混乱により滅亡しましたが、越智氏は筒井氏と並んで大和を代表する武家であり、越智氏なしでは大和の中世史は語れない重要な一族です。 越智氏が拠とした越智は、西に曽我川、東は高取川にはさまれた、標高約200mほどの山塊からなる越智岡丘陵の中央を東西

    南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1) - 大和徒然草子
  • 筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11) - 大和徒然草子

    飛鳥時代の古代官道・上ツ道をルーツとし、現在の奈良市と桜井市を結んだ上街道は、中世以来、大和国内の主要な南北幹線であり、沿線には古代から近世までの長い歴史の中で生まれた名所・旧跡が多く残されています。 この上街道沿いの散策スポットを当ブログで紹介していますが、前回は奈良市南郊の帯解周辺エリアをご紹介しました。 今回は、上街道から分岐し、五ヶ谷街道を東へ1kmほど歩いた場所にある窪之庄城をご紹介します。 窪之庄城の場所はこちら。 国道169号線沿いの窪之庄集落北側にある城跡で、奈良県平野部の城跡には珍しく中世館城の土塁と堀が良好に現存する貴重な城郭遺構になります。 窪之庄城とは 窪之庄城跡 八坂神社(東殿) 北側台地 中央の大堀切 西殿 窪之庄環濠集落 参考文献 窪之庄城とは 下図は現在の窪之庄の航空写真に、城域や環濠、土塁・堀の位置を『日城郭大系』の縄張図をベースに記入したもの。 窪之庄

    筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11) - 大和徒然草子
  • 安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10) - 大和徒然草子

    飛鳥時代に設けられた奈良と桜井を結ぶ古代官道をルーツに持ち、中世から近世にかけて大和国の南北を結ぶ主要幹線だった上街道。 その周辺には、古代からの長い歴史の中で生まれた数多くの旧跡があります。 上街道沿いには旧跡が集まるスポットがいくつかありますが、JR帯解駅周辺もその一つで、前回は中世城郭の今市城を紹介しました。 今回は上街道と五ヶ谷街道の交差点付近を中心に、安産祈願のお地蔵様で有名な帯解寺、龍伝説とこちらも安産祈願のお地蔵様で信仰を集める龍象寺、そして江戸時代の貴重な算額が奉納されている円満寺を巡ります。 帯解周辺図(国土地理院HPより作成) JR帯解駅 上街道・五ヶ谷街道交差点 帯解寺 龍象寺 八坂神社・円満寺 参考文献 JR帯解駅 帯解の散策で玄関口となるのがJR帯解駅。 実は早くもこの駅自体が、帯解地域の見所の一つとなります。 帯解駅は1898(明治31)年、奈良鉄道(現在のJR

    安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10) - 大和徒然草子
  • 南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子

    飛鳥時代に奈良盆地を南北に結ぶ官道として整備された道のうち、最も東に通され現在の奈良市と桜井市を結んだ上ツ道は、中世以降も上街道として大和の主要な南北幹線道として機能し、沿線には多くの宿場や市そして城郭が築かれたため、名所や旧跡が集まるエリアです。 当ブログでは上街道沿いの旧跡をこれまで8回ご紹介してきましたが、前回まで櫟以南の天理市内エリアを中心に散策してきました。 ※前回の記事はこちらです。 今回からは天理市から少し北に移動し、奈良市南郊のJR帯解駅周辺をしばらくご紹介していこうと考えています。 帯解周辺の散策スポットと言えば、安産祈願で有名な帯解寺が真っ先に挙げられるかと思いますが、中世大和を中心に紹介している当ブログとしては、帯解近辺で是非ともご紹介したいスポットが、中世城郭の今市城です。 今市城は、知名度は決して高いとは言えませんが、中世大和の南都・奈良をめぐる争いで常に勝敗の

    南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子
  • 美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、近鉄けいはんな線の延伸もあって交通アクセスが向上し、都会の利便性と自然豊かな田舎の生活が両立できる「トカイナカ」として、注目を浴びているエリアです。 前回まで中世の有力国人・鷹山氏の拠で現在は茶筅の一大産地である高山地区の旧跡を巡りました。 今回は高山地区の南に位置する上町地区の古刹・長弓寺(ちょうきゅうじ)を訪れました。 全国的に高い知名度を誇る寺社が多い奈良県にあっては、一般に広くその名が知られているとは言えない長弓寺ですが、国宝の堂は鎌倉期仏堂建築の代表例ともされる名建築で、落ち着いた境内の佇まいとともに知る人ぞ知る名刹です。 その歴史と現在の境内の様子をご紹介します。 長弓寺とは 境内 堂までの参道沿い 伊弉諾神社 堂周辺 堂 基情報 参考文献 長弓寺とは 長弓寺の場所はこちら。 富雄川沿いの大和郡山と河内交野を結ぶ古くからの街道沿いにあります。 以

    美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3) - 大和徒然草子
  • 二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、都会の利便性と自然豊かな田舎暮らしを両立できる「トカイナカ」として近年注目のエリアですが、中世以来、大和、山城、河内三ヶ国の国境が交わる特殊性もあって奈良県下の他の平野部とは一線を画す、独特な歴史を育んできた地域です。 前回は中世に生駒市北部を根拠として、奈良県内だけでなく畿内の戦国史で大きな存在感を示した国人・鷹山氏と、同氏が築いた高山城を紹介しました。 高山城に続いて今回ご紹介する高山八幡宮は、室町時代に建てられた殿の他、近世から続く宮座行事に使用される建物が残り、様々な見所が詰まったお社です。 2つの宮座が併存する非常に珍しい神社で、宮座の一つ・無足人座の由来は高山茶筌発祥の伝承や謎と深く関わりを持ちますので、高山八幡宮の歴史や境内の様子と併せて紹介します。 注)高山では茶筅を「茶筌」と表記するため、高山の茶筅や茶筅師については「高山茶筌」「茶筌師」と当記事では

    二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2024/02/26
    近鉄の生駒駅で茶筅が展示されていたのを見たことがあるんですが、こちらが由来でしたか!
  • 記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子

    大和政権発祥の地とも考えられている奈良盆地南東部(現在の桜井市、天理市エリア)は、古代からの歴史を持つ神社や旧跡が、数多くあります。 奈良県天理市に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)も、同地域の石上神宮(現天理市)や大神神社(現桜井市)と同じく、創建以来長い歴史を持つ一社。 社殿は近代以降建て替えられたものが多いのですが、古代から近代まで長い歴史の中で積み重ねられた様々な由緒や所縁を持つスポットであふれる当社は、山の辺の道や上街道の散策でぜひお立ち寄りいただきたい神社です。 参拝された際により深くスポットを味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介していきます。 伊勢神宮に次ぐ社領を有した大和神社 境内 一の鳥居 二の鳥居 殿 境内社 増御子神社 高龗神社(たかおおかみじんじゃ) 丹生川上神社との関係 朝日神社・事代神社・厳島神社 社務所(旧北之坊跡地) 祖霊社と戦艦大和記念塔 戦艦

    記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2024/02/04
    創建時の現在地は湿地帯だった可能性が高そうですね。後編が楽しみです。
  • 往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市は1914(大正3)年の大阪電気軌道(現近鉄)・生駒駅が開業してから、最初は宝山寺参道沿いに県下最大の花街が発達、大阪近郊の歓楽地となりましたが戦争で花街が下火になると、戦後は大阪のベッドタウンとして発展を遂げた町です。 ※現在の生駒市中心街の発展史について詳しくは下記の記事をご参照ください。 古社寺を始めとした文化財や、奈良まちや今井町といった古くからの町並みが多く残る奈良県内にあって、生駒市は近代に発達した住宅街というイメージが強く、旧跡、史跡のイメージが湧かない方も多いんじゃないでしょうか。 しかし、生駒もやはり奈良県の町。 市中央部・生駒山麓の壱分町に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)こと往馬大社(通称・生駒神社)は、生駒山を神奈備(御神体)とした古式の信仰を守る日有数の古社なんです。 往馬大社は創建年は不詳ながら、延喜式神名帳(92

    往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2024/01/14
    往馬大社のあたり、竜田川に沿ってブラブラとあるいてみたいですね。
  • 江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子

    1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封と豊臣秀長の大和入国により、大和では中世的な国人支配の残滓が一掃され、中央武家政権による一元的支配が行き渡る近世が格的に始まります。 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い、そして1614~1615(慶長19~20)年の大坂の陣と相次いだ戦国末期の大戦で、多くの大和国人が敗者の側に付いて姿を消し、勝者の側に付いた者も、その多くが郷土である大和に留まることはできませんでした。 戦国時代が終わり、大和国人の末裔たちはどうなっていったのでしょうか。 大坂の陣後の大和 大和へ入った他国衆 天領の支配 大和を離れた国人の子孫たち 茶道の家となった古市氏 造り酒屋で身を立てた島氏 参考文献 大坂の陣後の大和 大坂夏の陣後、戦国時代は終結し、元号も慶長から元和に改元されて格的な近世社会が開かれました。 下図は、大坂の陣終結直後の大和の情勢図になります。 豊臣氏滅亡直

    江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/12/31
    へぇ~金魚は甲斐の副業が始まりですか!今年もお世話になりました。新年もご活躍、お祈り申し上げます。
  • 大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子

    戦国時代末期、松永久秀と熾烈な抗争を続けた筒井順慶は、織田信長、羽柴秀吉と畿内に君臨する天下人に臣従。 筒井氏は天下人の武力と権威を背景として大和の支配を進めたことで、中世以来の興福寺衆徒から近世大名へと転身しました。 一方、中世に筒井氏と大和の覇を競った越智氏、十市氏、古市氏は筒井氏被官として家名の存続を維持するのが精いっぱいという状況に零落し、箸尾氏や宇陀の秋山氏も筒井氏傘下の与力大名とならざるを得ませんでした。 筒井氏に反抗的な国人たちは、服従するか、粛清されるかの二者択一を迫られ、1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻以来、反筒井の代表的国人であった柳生宗厳は元関白で信長と親しい近衛前久に接近することで、領地を維持していました。 その一方、元々筒井氏の被官であった松倉重信(松倉右近)、中坊秀佑や筒井方国人であった島左近らは粛清された南方衆の闕所に新たに封じられ、有力者として台

    大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子
  • 古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子

    奈良県内には古代からの街道沿いに発展した宿場町が数多くあります。 今回紹介する宇陀市中心街の萩原宿もそういった町のひとつです。 場所はこちら。 大和高原南部に位置し、宇陀市の中心市街となっている場所です。 大阪と伊勢を結んだ伊勢街道沿いには、往時を偲ばせる町並みが今も残り、散歩にぴったりの町でした。 街道の交差点・萩原 新町界隈 墨坂神社 榛原空襲戦跡 札の辻 上町~墨坂伝承地 東町~金平稲荷神社 椋下神社~庚申堂の辻 参考文献 街道の交差点・萩原 さて、萩原宿は町村合併で宇陀市となった旧榛原町の中心市街でした。 榛原という地名がこの地に名付けられたのは明治になってからで、1889(明治22)年に町村制が施行されたとき、萩原村、福地村など12村が合併して村名を榛原村(はいばらむら)としたことが始まりです。 「榛原」の名は、『日書紀』に記された神武天皇が天地の神霊を祭ったとされる上小野榛

    古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/11/20
    わかりやすい地図、ありがとうございます。大阪から近鉄で榛原まで来ると、お伊勢さんにいよいよ近づくという気分になるところですね。
  • 柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12) - 大和徒然草子

    1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄元を阿波へ撃退した細川高国は、10代将軍・足利義稙をも京から追い出して新将軍・足利義晴を擁立するなど、20年にわたって京都で政権を握りました。 しかし、家中の内紛から1527(大永7)年に高国政権は内部から崩れ、阿波に逼塞していた細川澄元遺児・晴元と三好元長が桂川原の戦いで将軍・義晴と高国を撃破すると、義晴、高国は近江へ逃亡。 高国政権は崩壊して晴元方が京都の支配権を握り優勢となります。 高国政権崩壊により高国の意向で結ばれた筒井氏と越智氏の同盟はほころびを見せ、1529(享禄元)年に筒井順興は領土的野心から河内の畠山稙長と結んで越智領へ侵攻。 再び筒井と越智の抗争が再燃しました。 柳賢治の大和侵攻 梟雄・木沢長政の登場 天文の大和一向一揆 参考文献 柳賢治の大和侵攻 桂川原の戦いで将

    柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/08/26
    柳本の音を聴くと、奈良っぽく感じるのは京阪神に住んでるからでしょうか😀
  • 細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9) - 大和徒然草子

    大和国内は南北朝の動乱以降、国人同士の争いが絶えず、領土の奪い合いは日常茶飯事でした。 しかし、支配地の移動はあくまで興福寺・春日大社の衆徒・国民間の中だけに限られてきました。 しかし1497(明応6)年、畠山尚順は敵対する畠山義豊に与した大和国人・万歳氏、布施氏の領地を攻め取ると、闕所となった両氏の所領を配下に与え、他国衆による大和への侵略は、興福寺と大和国人たちに大きな衝撃を与えます。 そして1499(明応8)年に始まる細川政元被官・赤沢朝経による大和侵攻を目前にして、ついに南北朝時代以来の宿敵同士である筒井氏、越智氏が同盟。 赤沢朝経に与した古市氏を除くほぼすべての大和国人が一揆を結んで他国衆に対抗します。 大和国人一揆は団結して赤沢朝経率いる京衆に立ち向かいましたが、2度に渡る侵攻は京衆の勝利に終わり、1506(永正3)年に国中(くんなか=奈良盆地)一帯は赤沢朝経の支配下に入りまし

    細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9) - 大和徒然草子
  • 思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!? - 大和徒然草子

    奈良市戦災概況図~一部抜粋(国立公文書館蔵) 太平洋戦争末期、日全国の都市は米軍の激しい空襲に晒され、陸海軍基地や工場だけでなく多くの民家が焼かれ、銃後の人々が戦災で命を失いました。 そんな中、戦後「京都と奈良は空襲を受けなかった」という言説が、まことしやかに語られるようになりました。 曰く、京都と奈良は世界的に貴重な文化財があったため、米軍が爆撃を避けたのだと。 しかし、この言説は全くの神話にすぎません。 米軍はイタリアで、西欧文明の至宝が集まるローマを容赦なく爆撃しており、なじみの薄い日文化財消失に拘泥するなど到底考えられないことです。 米軍が京都、奈良に大規模空襲を掛けなかった原因は、単に重要な軍事施設がほとんどなかったことと、京都に関しては原爆投下の有力候補であったため、広島同様、市街地を焼き払うような爆撃が避けられたという説に説得力があるように思います。 実際に奈良県では1

    思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!? - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/07/25
    いまだに弾痕が残っている場所があるとは!そういうところも歴史を大切にする奈良の奥深さなのでしょうか。
  • 明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7) - 大和徒然草子

    1477(文明9)年に応仁の乱は東軍勝利で終結したものの、その原因となった畠山義就と畠山政長による畠山氏の家督争いは終わることなく続きました。 河内と大和を実力で切り取った義就は南山城にも進出。 山城守護にあった政長との間で、南山城は激しい係争地となりました。 こうした中、他国衆に荒らされた南山城の久世、綴喜、相楽三郡の国人たちは1485(文明17)年に国一揆を結成し、守護である両畠山氏を実力で追い出し、国人の合議制による惣国を建設します(山城国一揆)。 畠山氏の内訌は引き続き残ったものの、大規模な戦いは沈静化し、ようやく応仁の乱以来の畿内の戦乱は沈静化しました。 大和では西軍の越智氏、古市氏が東軍の筒井氏、十市氏を駆逐し、筒井氏当主の筒井順尊は、大和への帰国が叶わないまま1489(長享3)年7月京都で客死します。 1489~91年にかけては将軍・足利義尚、大御所・足利義政、そして足利義視

    明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7) - 大和徒然草子
  • 丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3) - 大和徒然草子

    奈良県天理市というと、市内中央部に天理教の施設が集中する宗教都市のイメージが今ではすっかり定着していますね。 天理市は現在全国で唯一、特定の宗教法人の名称を冠する市ですが、1954(昭和29)年に奈良県で4番目に市制を施行した時、市名の由来について選定理由書には全国的に有名な天理教の中心地であるとともに「関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく」とあります。 ところで現在の天理市中心部は、町村合併で市制施行されるまでは、丹波市町という名前でした。 丹波市は上街道沿いの古い歴史を持つ町で、実は現在も江戸時代以前の古い町並みが残されている地域です。 上街道沿いに続く丹波市の町とはどんな場所か、天理市中心街を散歩してきましたのでご紹介します。 山辺郡の中心地・丹波市 丹波市の町並み 北ノ町~中島町 町 仲之町 市座神社 天理駅前~天理通 天理教部 参考文献 上街道の散策スポット 山辺

    丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3) - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/07/15
    この教団、けっこう不思議な感じでして。本部もそうですが、重要史跡の真上か至近に、教団の施設があるんですよねぇ。何か知ってるんでしょうかね。
  • 応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5) - 大和徒然草子

    1454(享徳3)年以来、管領家・畠山氏の家督を巡る畠山義就と政長の争い収まることなく続き、大和でも義就支持派の越智家栄を中心とする勢力と、政長を擁立支持する筒井氏出身の成身院光宣、筒井順永の一派に分かれて、混乱は深まるばかりでした。 畠山氏の内訌は幕府の主導権を巡る細川勝元と山名宗全の対立と結びつき、1467(文正2)年正月には室町御所を中心に、細川方と山名方の軍勢が睨み合う事態となります。 ここで将軍・足利義政は、畠山氏の内訌に他家の加勢を禁じ、義就軍と政長軍だけで合戦を行わせ、その勝者に家督を認めるという無定見極まりない姿勢を見せました。 細川勝元は将軍の命を守って政長に加勢しない一方、山名宗全は将軍・義政の命を無視して義就に加勢。 御霊合戦は義就が大勝して、宗全が一気に幕政を主導するようになります。 一方、政長を支援していた勝元は、「味方を見殺しにした大将」という不名誉を、宗全の命

    応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5) - 大和徒然草子
  • 宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩 - 大和徒然草子

    貴重な歴史的景観を保全するため指定される重要伝統的建造物群保存地区(以後、重伝建地区)。 現在奈良県内では、橿原市の今井町、五條市の五條新町、そして宇陀市松山の3つの地域が指定されています。 実は、県内の重伝建地区で最も指定地域の面積が広いのが宇陀松山。 現在は山間の静かな町ですが、近世以降、宇陀松山は商家町として賑わい、昭和40年代頃まで宇陀地方の中心地として栄えました。 今回は宇陀松山の町の概略と現在の様子をご紹介します。 宇陀松山とは 酒蔵通り 松山通り 上町通り 春日神社 松山西口関門 下町通り 道の駅・宇陀路大宇陀 関連情報 参考文献 宇陀松山とは 宇陀松山の場所はこちら。 近鉄榛原駅からバスで20分ほど、名阪国道針ICから自動車で30分ほどの場所にあります。 宇陀松山は、大阪から伊勢に至る伊勢街道と、和歌山から吉野を経由して伊勢に至る伊勢南街道を結ぶ旧松山街道沿いに発達した商

    宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩 - 大和徒然草子
    Kaimotu_Hatuji
    Kaimotu_Hatuji 2023/06/20
    町並みをみてまたゆきたくなりました。薬の館が面白かったです。