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ブックマーク / keya1984.hatenadiary.org (6)

  • 「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論 - Backlash to 1984

    歴史教科書における沖縄戦の記述をめぐる検定意見に、またぞろ感情的な反発が起きているようだ。一般人に対して自決するよう軍命令が出ていたわけではないが多数の集団自決があったことは史実であって、それを誤解させないように記すべしとの意見が、なぜに「旧軍の関与を否定した」ことになるのか。このような主張は、それこそ、「集団自決せよとの軍命令があってはじめて旧軍がそれに関与したと言えるのであって、そのような命令がなかったのであれば、住民の集団自決に軍の関与があったことにならない」と主張しているのと同じであろう。つまり右派がそんな馬鹿げた主張をしているのではなく、実は左派こそが主張しているのも同然ではないか。 命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろしいことではないか! - Munchener Brucke 題名のとおり、そのとおりである。「命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろ

    「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論 - Backlash to 1984
  • 差蔑ではない差別(その2) - Backlash to 1984

    「差別」の語には「ある人がある人たちに偏見をもって蔑むこと」と「あるひとたちが世の中の仕組みの中で不公平な立場におかれていること」の二通りの用法があること、その二種類の用法から生じる齟齬について差蔑ではない差別 - Backlash to 1984で先述した。これについてブクマに寄せられたコメントをもとに、引き続き述べたい。 以下のやりとりをデフォルトとします。 A「それこそ差別だ!」 B「差別していない!」 A「差別する人ほど差別していないと強弁する!」 B「そういう決め付けこそ差別じゃないか!」 …お互い何を言い争っているか、ここでホンヤクコンニャクを出します。 (1)双方が、「差別」に該当者個人の蔑視や偏見を見て取る場合 A「それこそ人を見下した言い方だ!偏見だ!」 B「わたしはあなたを見下してないし偏見なんか持ってない!」 A「偏見で蔑んでいる人ほどそれを隠して言い張る!」 B「そ

    差蔑ではない差別(その2) - Backlash to 1984
  • 差蔑ではない差別 - Backlash to 1984

    「差別」という言葉はもともと、「区別」や「選別」の類義語であった。この用法は今でも「無差別大量殺人」等というときに残っている。ここでは選別しないという意味だ。「誰も蔑視せずに殺しまくる」という意味ではない。もともとは「差別する=蔑視する」ではなかった。昭和のはじめころの文章に「あらゆる主義も教義も差別せずに論じてしまって云々」という表現があるのを見れば、ここでは「区別せずに」とほぼ同義である。「分別なく味噌も糞も一緒に」のニュアンスも帯びているようでもある。いづれかの主義や教義を蔑視すべきなのに…という文意ではない。 それが、いつの時代頃からかはわからないが「蔑む、卑しむ」と同義に使われるようになっている。おそらく戦後の平等教育で、「職業・出身・性別などによる差別をなくしましょう」というとき、それが「職業・出身・性別などで蔑んだり卑しんだりするのはやめましょう」というのと同義であったことと

    差蔑ではない差別 - Backlash to 1984
    Masao_hate
    Masao_hate 2007/03/23
    ”ある人々に対する多くの人々の扱いが、世の中のならいによって、とくに不公平だとも不公正だとも思われないようなことが社会通念上まかりとおっている”状況を、侮蔑がなくても「差別」と呼ぶという使い方。
  • 良か良か、死にゃぁせんたい - Backlash to 1984

    http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070306/p1 この場合の「寛容さを求める」とは、「このような私に寛容であってほしい。このような私に寛容でない人には、私は不寛容でありたい」ということにほからなない。世情、そのような姿勢をこそ「不寛容な考え方だ」と評するのである。が、これまた世情、そのように評するだけであって、そのような考え方を消えてなくなれとか滅びてしまえとまで思い込むことも稀である。それを「寛容さ」という。 …なぁんてね、大袈裟ですね。私もkmizusawaさん同様、こういった言葉が嫌いですよ。でもそのように嫌っている自分もまたそのように振舞っていたりとか、ですね。でも世の中、嫌なものはいっぱいあって当たり前じゃないですかね。嫌なものは消えてなくなれとか言い出したら終り、だと思いますよ。嫌なことだらけ、嫌な人だらけ、そんなん、誰だってそうですよ。

    良か良か、死にゃぁせんたい - Backlash to 1984
    Masao_hate
    Masao_hate 2007/03/12
    どうかな?まぁ僕は基本的に非常に寛容な人間なんだけど、不寛容な人間に対してだけは不寛容である程度には、不寛容な人間でありたい。
  • わかってくれべいべぇ…じゃねーだろという話 - Backlash to 1984

    久しぶりに凹んだけど、割と早く立ち直った。立ち直りのきっかけの言葉も、ありがたかった。自分の言葉で凹んで、他人の言葉で立ち直る。ありがたいことだと素直に思える。おっちゃんになって良かったと思うことの一つは、こういうことだ。年をうのも悪くないね。というわけで、障碍関連の話を続けてみる。 http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070227/p3 海外のことは知らないが、日でアスペルガー症候群が一般にも知られるようになったのはここ数年のことだ。今成人で診断されてる人の中には成人してから診断された人が多いと思う。アスペルガー成人の人が書いたものを読むと、子どもの頃から違和感を覚えていたけどそれがなぜなのかどこが悪いのかさっぱりわからず、わからないまま周囲にあわせようとして混乱したということがよく書かれている。この男性も、成人してから診断を受けて、それまで我慢してい

    わかってくれべいべぇ…じゃねーだろという話 - Backlash to 1984
    Masao_hate
    Masao_hate 2007/03/05
    ”ある文字列に接してそれが自分のことだと思えた人には、それは「自分のこと」なので、自分にはわかる。でも同じ文字列を見ても、それが「他人のこと」である人には、自分で自分を理解するようにはわかるわけない”
  • 男女論と部落問題について(2) - Backlash to 1984

    前回の三人寄れば文殊の知恵 - Backlash to 1984の続きである。さて、いわゆる「弱者男性」について先に少しだけ述べておきたい。この言葉はアンチを含むフェミ界隈でしか見聞きしないのだが、妙な言葉が出てくるものだと思う。おそらくは「男は社会的強者、女は社会的弱者」なる例のアレから、「しかし社会的弱者の男性もでてきたし社会的強者としての女もでてきた」としての表現であろう。私は、このような表現の前提である男女観を有しない。ある男もしくは女が、何らかの理由で弱者の立場におかれることはあるだろう。そうした社会的な弱者というものは存在するが、「男」なり「女」なりが、ただそのカテゴリーでもって弱者であるといったことはないのだから。フェミニズムにおけるジェンダー論というのは、あたかも「女」であることが弱者の初期条件となっているかにも思えるものが多いが、そのようなことはありえない。このことについ

    男女論と部落問題について(2) - Backlash to 1984
    Masao_hate
    Masao_hate 2006/08/03
    ”「男」なり「女」なりが、ただそのカテゴリーでもって弱者であるといったことはない”超同感。
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