ロッテでブラジル人通訳が活躍中だ。ラファエル・フェルナンデスさんは、ポランコやソトの“相棒”としてサポートする。そもそもなぜ、サッカー大国のブラジルで野球に惹かれ、日本にやってきたのかーー。そこには偶然が生んだドラマがあった。
クラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)やダンプ松本を中心とした極悪同盟で、女子プロレスが社会現象と呼ばれる大ブームを起こしていた1985年。西脇充子は、その年に全日本女子プロレス興業(以下、全女)のオーディションに一発合格した。同期は宇野久子(のちの北斗晶)、現役続行の通算キャリアとしては女子マット界最長となる堀田祐美子など、15人もいた。 現在は、浅香山部屋の女将さん。親方で夫、元大関・魁皇の浅香山博之さんとともに弟子を育てて、部屋を切り盛りする。美人女将が振り返る、女子プロ黄金期とは。《NumberWebインタビュー全3回の初回》 ◆◆◆ 西脇 いい時代にプロレスをやらせてもらいましたよ。あの時代が、今の私を生かしているって感じ。ひと握りの人しか女子プロレスラーになれない時代でね。私の代で3000人以上の書類審査からオーディションに受かったのは10人。その後の補欠合格で、最終
「野球をやっていたことを知らない人が9割なので」 まだ桜がつぼみのまま閉じこもろうとしていた3月中旬、神戸の生田神社の近くにあるカフェで、ある翻訳家と話す機会があった。じっくりと向き合うのは久しぶりだった。あの頃をどのように過ごし、いまをどのように生きているのか……。彼と別れてから、ボイスレコーダーを聞き直した。ふと脳裏をよぎったのは、かつて読んだ本の一節だった。 《人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。》(ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫、大島かおり訳) 翻訳家の朝は早い。彼とLINEでやり取りする時、メッセージが届くのはいつも午前4時である。海外と業務の打ち合わせをするために早起きするのだという。世の中が寝静まっている夜明け前に動きだすようになってから、ずいぶんの時が経つが、この
フィジカルコーチに中村憲剛、GKコーチに内田篤人、ヘッドコーチに島田裕介という顔ぶれのスタッフ陣のサポートを受け、北嶋秀朗“監督”が学生たちを指導する。 週末に控えるゲームは、ACミランとの第2戦。第1戦を2-0で勝利したインテルは、どんな準備をして第2戦を迎えるのか――。 実際にあった2022-23シーズンのチャンピオンズリーグ準決勝のシチュエーションに則って、その日のトレーニング構築を求められる――23年6月29日に行われたS級コーチ養成講習会のヒトコマだ。 「僕はインテルの監督という立場でトレーニングを組み立てたんですけど、インテルの5-3-2はもともと興味のあるシステムだったので、自分の志向とも合っていて、分析するのがすごく面白かったですね。(シモーネ)インザーギ監督の守備は、攻撃するために守備をしている、カウンターを発動するために守備をしているという感じで興味深かった。シンパシー
Jリーグで18年。まもなく迎えるリーグ最終節を終えれば、指揮した試合の数は歴代最多記録となるJ1通算556試合に到達する。「最もJリーグを知る外国人監督」であるミハイロ・ペトロヴィッチ(66歳)は、日本サッカーの現状をどう見ているのか。自身のルーツからJリーグが抱える課題、そして愛弟子・森保一が率いる日本代表への期待まで、たっぷりと語った。【NumberWebインタビュー全3回の1回目】 北の大地に根を張って、はや6年。自らが信奉する攻撃スタイルを磨き続けるミシャこと、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督はJリーグの中で稀有な存在だ。負けがこめば責任を負ってすぐクビになる監督業を生業としながら、『成績』からは少し離れた場所で信じる道に邁進することを許されているように見える。 2006年に来日してサンフレッチェ広島の監督として6年を過ごし、2012年からは浦和レッズを6年率いた。そして2018年から
フランスの日常生活で英語が通じるようになった。カフェ、レストランなど観光客を相手にするお店ならほぼ100%。ストレスフリ―である。
「リトルガイ・クラブのメンバーだと伝えて」 トーマスが「リトルマン」と呼んだのは、身長172cm、日本代表ポイントガードの河村勇輝のことだった。『キラー』というのはトーマスがよく使う言葉で、最大級の賛辞だ。 トーマス自身175cmとNBAでは小さいガードとしての苦労も味わってきた。それだけに、同じようなサイズの河村が小気味いいプレーでフィンランドのディフェンスを翻弄する様子が目に留まったようだ。 実際、フィンランド戦での河村は、第4クォーターに切れ味の鋭いドライブインからのレイアップやステップバックの3ポイントシュートを決めたかと思うと、緩急を生かしたドライブインから味方にアシストを通すなど、ビッグプレーを連発していた。フィンランドのエースでNBAオールスター選手、身長213cmのラウリ・マルカネンにマークされても、冷静に3Pシュートを沈めたり、ドライブインで抜き去ったりしていたのが圧巻だ
バスケットボール男子日本代表の一員として、ワールドカップ(W杯)で躍動したジョシュ・ホーキンソン、28歳。大学卒業後に米国西部シアトルから名古屋へ渡り、Bリーグで長くプレー。日本国籍も取得した。その活躍ぶりから、「本当にこの男が、ニッポンにいてよかった!」とTV実況も叫んだホーキンソンとは何者なのか。父ネルズさんが明かした。 ジョシュ・ホーキンソンは約束の時間に遅れない。17歳の高校生だったある日曜日、教会へ行き、食事をして用事を済ませた後、午後6時に家族会議を予定していたのに珍しく時間になっても姿を見せなかった。家の中を探してもいない。両親が心配して自宅の外を見てみると、野球のボールを投げながら空を見上げて泣いていた。 「野球は辞めるよ」 「バスケより野球がうまかった」 秋にサッカー、冬はバスケットボール、春には野球。ジョシュは「三刀流」の少年だった。父のネルズさんはノルウェー、母ナンシ
4年ぶりに声出し応援が復活した夏の甲子園。ほとんどの生徒が本格的な声出し応援は初めてで、これまでの伝統にとらわれずに、新しい応援方法や曲を導入した学校も多数ある。大阪桐蔭や智弁和歌山など、応援にもファンの多い強豪校は出場していないものの、あらためて全49校の応援を聴くとさまざまな発見がある。これだから、アルプススタンド通いはやめられないのだ。 素晴らしい応援は多数あったが、今回特に印象に残った応援を登場順に紹介したい。 【土浦日大】水戸黄門からYOASOBIまで まずは8月6日の開会式、夏の甲子園だけで響くオリジナルファンファーレや、『栄冠は君に輝く』の演奏を聴きながら、「やっぱり生演奏はいいなあ」と感動に浸っていると、開幕戦・土浦日大(茨城)の初回攻撃時に流れてきたのは、まさかの『水戸黄門』! 「人生楽ありゃ苦もあるさ~」の歌詞でおなじみの、テレビドラマ時代劇『水戸黄門』のオープニング曲
今年の春あたりから地方大会などで増え始めた、大流行中の応援「盛り上がりが足りない」。「も! 盛り! 盛りあ! 盛り上がりが足りない!」とコールする応援で、西東京大会で初めて聞いた時は、最初何と言っているのかわからなかった。「変わったコールだな」「誰に向かって言っているんだろう」くらいに思っていたが、瞬く間にスタンドを席巻。開催中の甲子園で、全49校の応援を取材したところ、実に32校もの学校が取り入れており、毎日どこかの応援席からこのコールが響いている。 採用・不採用の「理由」 SNSやYouTubeでさまざまな応援が簡単にコピー出来る時代だけに、正確な起源ははっきりしないが、茨城の明秀日立高校サッカー部の応援がTikTokで拡散され、全国に広まったのは間違いない。アルプススタンドで取材した野球部に「この応援を何で知ったのか」と聞くと、100%TikTok。「明秀日立サッカー部のを見た」とい
W杯を一旦忘れ、条件面を優先してJリーグへ ――1995年、パルメイラスでチームメイトだったMFジーニョ、CFエバイールと共にフリューゲルスへ入団します。そのいきさつは? 「1994年後半、当時世界最強リーグだったイタリア・セリエAの名門ローマからオファーを受けた。しかし、条件面でクラブ間の合意が成立しなかった。 その後、フリューゲルスからオファーをもらったんだ。当時在籍していたエドゥー・マランゴンとバウベル(いずれもMF)に聞いたら、『日本は素晴らしい国だ。クラブの練習環境もいい。絶対に来るべきだ』と言われた。 当時は幼い娘が2人いて、妻は地震を怖がっていた。でも、僕は『大丈夫だよ』と妻を説き伏せた。2年契約で、さらに2年延長するオプション付き。その後、ジーニョとエバイールも移籍が決まり、僕も心強かった」 ――1990年にセレソンに初招集され、1993年のコパ・アメリカ(南米選手権)にも
世界最高峰の舞台で、鮮烈なデビューを飾った1年。前人未到の境地へ駆け抜けるこの目には、今、一体どんな景色が見えているのか――。プレミアから日本代表まで、三笘薫がその全てを語った。 現在発売中のNumber1075号掲載の[ロングインタビュー]三笘薫「僕はもっと進化できる」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文は「NumberPREMIER」にてお読みいただけます】 「もちろん僕も自分の感覚を大事にしていますし、最終的には信じます。でも、それが合っていないのに信じていたらバカじゃないですか。自分がいい動きをしたとしても、他の人にはそう見えないときもある。自分では速いと思ったけど、本当は速くないときもある。だから僕はあらゆる手段を使って自分の主観が正しいかを確かめたいんです」 実力でも人気でも日本サッカー界の顔に 三笘にとって2022-'23シーズンは、新たな扉を開く1年になった。 初
大谷翔平のバットが止まらない。現地時間6月12日の1試合2発、14日の21号に続き、投手として先発した15日にも22号2ランを放ち、直近7戦6発でア・リーグ本塁打ランキングのトップを独走。13本塁打で月間MVPを受賞した2021年6月の再来ともいえる爆発を見せている。5月はやや停滞していた大谷のバッティングは、なぜここにきて劇的な上昇カーブを描いているのか。現地で大谷を追う番記者の阿部太郎氏が、“覚醒”の裏側に迫った。 明らかに“何か”を探っていた5月 5月19日からのホームスタンド9連戦。大谷の調子は下降線に入っていた。 ポツポツと本塁打は出ても、総じて打撃の内容は良くない。ボール球に手を出し、粘れない。苛立ちも見えた。 5月23日。珍しく、屋外でフリー打撃を行った。今季はヤンキースタジアムで実施して以来2度目。本拠地での屋外フリーとなれば、昨年の4月下旬以来のことだった。
実は、球場が見えてからどんどん遠ざかっていくため、「ここで止めて!」と思うのだが、情け容赦なく列車は進んでいく。ちなみに新駅の開業はいまのところ2027年に予定されている。 さて、北広島駅からはシャトルバスか(200円也。なぜかVISAタッチと現金のみで、交通系ICカードの取り扱いはナシ)、徒歩の二択である。バス乗り場に行ってみると長蛇の列で、並ぶことが大嫌いな私は迷わず徒歩を選択する。これで、Apple Watchのムーブとエクササイズリングも満たされることであろう。 駅の表示では19分、案内係の人の呼びかけでは「25分くらいかかります」という道のりは、天気がよければ極めて快適。雨が降らない限り、私だったら次も歩くと思う。 案内通り、20分ほどすると「神殿」のようなエスコンフィールドが見えてくる。その偉容は人をドキドキさせるに十分である。入場ゲート前には、「TRUFFLE BAKERY」
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