昨日書いた「エクリチュール」論について、ツイッターの方に、「そういう内田自身の書いている文章のリーダビリティはどうなのか?」という疑問が寄せられた。 それはたして「階層下位に釘付けにされているものにも届くように書かれているのか?」 そういう問いかけはもちろん有効である。 私自身が昨日書いたブログの文章は決して読みやすいものではない(漢字が多いし、英語も使いすぎる)。 けれども、それにもかかわらず、万人に開かれた「不可能な言語を夢見て」書かれているという点において、文化資本の排他的な蓄積を回避することをめざしている点において、「リーダブルであること」は私の書きものの変わらぬ目標である。 リーダブルな文章というのは「わかりやすい文章」ということとは違う。 「ロジカルな文章」というのとも違う。 ましてや「簡単な言葉が使ってある文章」のことではない。 どれほど難しい術語が用いられていても、どれほど