ツイート中にある『吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日』は、大正時代に吉原遊廓で遊女として勤めた人物・森光子による手記で、遊女本人の著述や本人への聞き取りといった記録はあまり残されていない中、遊女本人のまなざしを窺い知ることができる貴重な作品の一つ。 森光子 『吉原花魁日記』 「もう泣くまい。悲しむまい。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは今の慰めの唯一であると共に、又彼等への復讐の宣 kastoripub.stores.jp
![残酷な過去がときに「笑い」を誘うこと。|渡辺豪](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/915020626030b8dbd6b9b6bd6be522beab6353df/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fassets.st-note.com%2Fproduction%2Fuploads%2Fimages%2F129902975%2Frectangle_large_type_2_4a1ac29ccf75e11a65d6a4b52c7229dc.jpeg%3Ffit%3Dbounds%26quality%3D85%26width%3D1280)
「不発弾でいまも人の命が奪われています。私たちにとっての戦争はまだ終わっていません」 79年前、インド北東部インパールを目指して旧日本軍が進軍し、激しい戦闘の末、インド国内だけで3万人に上る日本兵が命を落とした「インパール作戦」。 その歴史を伝えようと活動するインパール出身の45歳の男性の言葉です。 日本が関わった戦争による被害が、遠く離れたインドでいまも起きている現実、そして直接戦争を体験していない世代が、戦争について調べ記録を残そうとしているその思いと背景を追いました。 (ニューデリー支局カメラマン 森下晶) インパール作戦とは? 「インパール作戦」は、1944年、当時イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指して旧日本軍が進軍し、激しい戦闘や食料不足などにより、インド国内だけで3万人に上る日本兵が亡くなった戦いです。 1944年のニュース映像「緬印(ビルマ・インド)戦線」 日本で
ロシアによるウクライナ侵攻は、ウクライナの抵抗や欧米の支援と制裁もあって、ウラジーミル・プーチンが当初想定した通りには進んでいない。 絶対的な自信を持ったロシアが相手の力を見誤って、戦争が泥沼化した例は初めてではない。特に1904〜1905年の日露戦争の状況と今回の状況は似ていると、インテリジェンスが専門の歴史研究者、デイヴィッド・ジオーは指摘する。 この戦争がロシアの権力基盤に与える影響は大きく、プーチンは今後、日露戦争後のニコライ二世と同様、大きな試練に直面することになるかもしれない。 戦況が似ている2つの戦争 拡張主義的感情にとらわれ、領土をめぐる隣国との無分別な戦争に乗り出した際のロシアは、自国が勝ちを収めるものと絶大な自信を持っていた。 絶対君主同然に国を治め、隣国を見下していたロシアの元首は、自国の利益が脅かされている、そしてロシアはもっと大きな影響力を持ち、もっと敬意を払われ
Published 2021/08/15 07:00 (JST) Updated 2021/08/16 11:56 (JST) 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に
日本では、なぜ「ナチスのモノマネを気軽にしてしまう人」が後を絶たないのでしょうか。 デリカシーのない日本人の発言の数々 筆者はドイツ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、ミュンヘンで育ちました。日本に来てから約20年。思い返してみると、来たばかりの頃、「日本とドイツのハーフ」であることを伝えると、よくこうリアクションされたものです。 「日独ですか。日独といえば、日独伊三国同盟ですね!」と。その後、発言者の多くが決まって「わっはっは」と大爆笑するのでした。 「日独伊三国同盟」は筆者ももちろん知っています。しかしなぜ自己紹介の際、それを持ち出すのか不思議でなりませんでした。というのも、ドイツでは「ナチス政権時代に日本・ドイツ・イタリアが同盟を結んでいたことを喜ばしく思うような発言」はタブーだからです。 この発言者の多くは高齢者でした。現在では戦争や同盟のことをあまり知らない人が増えたせいか、同じ
文部科学省は12日、政府が教科書の「従軍慰安婦」の表現を不適切としたことに関し、「いわゆる従軍慰安婦」との表現も不適切であるとの認識を示した。同日の衆院文科委員会で日本維新の会の藤田文武氏が見解をただし、文科省の串田俊巳統括審議官が「今年度の教科書検定より、『いわゆる従軍慰安婦』との表現を含め政府の統一見解を踏まえた検定を行っていきたい」と述べた。「従軍」と「慰安婦」を組み合わせて使用することも検定対象となる考えを示した。 政府は維新の馬場伸幸幹事長が提出した質問主意書に対し、4月に閣議決定した答弁書で、「従軍慰安婦」「いわゆる従軍慰安婦」ではなく、単に「慰安婦」との用語を用いることが適切とした。一方、平成5年の河野洋平官房長官談話には「いわゆる従軍慰安婦」との記載があり、菅義偉首相は10日の参院予算委員会で、河野談話を継承する立場を重ねて表明した。 また、萩生田光一文科相は12日の文科委
731部隊にいた10代の少年兵たち 「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話していました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』なんて人もいましたね。まだ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作っていることも知ってましたよ」 たった14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。 関東軍防疫給水部本部、通称「731部隊」。満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行っていた。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発していたとされる。 14歳から17歳という多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言できる元隊員は少ない。満州の地で、彼はいったい何を見たのだ
第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所。そのガス室跡の地中から発見された“謎のメモ”。書き残したのは、ユダヤ人でありながらナチスの大量虐殺に加担させられた「ゾンダーコマンド」と呼ばれた人たちだった。未だ多くの謎が残るホロコーストの実態。地中に埋もれていた「死者たちの告白」に迫る。 大量虐殺の実態に迫る鍵 第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行った「ユダヤ人の大量虐殺」。その犠牲者は、600万人に上るといわれている。中でもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」では、およそ110万人がガス室などで殺されたとされる。しかし、現場は終戦間際、証拠隠滅を図ったナチスによってほとんどが破壊された。アウシュビッツの跡地では、大量虐殺の実態の検証が今なお続けられている。 「犠牲者の遺品や資料から分かった事実を世界に伝えなければなりません。大量虐殺の実態は、未
泣きまくる朝日新聞、涙で「天皇陛下……」と絶叫 終戦の日、1945年8月15日。 朝日、毎日、読売、日経、産経の5紙はこの日をどのように報道したのか。すべて同じと思いきや、比較すると意外にもその差異が浮かび上がってくる。 まずは、朝日新聞からみてみよう。 この日の朝日は、とにかく泣きまくる。社説も「一億相哭(そうこく)の秋(とき)」。「相哭」は「みんなで泣く」という意味だ。その名のとおり、天皇も、臣民も、涙、涙の様相である。 「誰か涙なきを得るものぞ」「言々句々、御血涙の結晶」「この度の大詔を拝しては、必ずや哭(な)かずにゐられないであらう」「相懐いて哭するの情に堪へない」「君国の直面する新事態について同胞相哭」。 2面の記事もタイトルで泣いている。「玉砂利を握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙」。しかも、その内容は社説よりすさまじい。 書いた記者は、正午の玉音放送にあわせて、宮城(皇居)前広場に
はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。『日本のいちばん長い日』は終戦の日を描いたベストセラーとなり、映画化もされている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など著書多数 「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」 秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「
矢澤豊氏がアゴラに「「七人の侍」という日本の寓話」という記事を寄稿した。 映画批評としては興味深い点もあるが、映画『七人の侍』で描かれる戦国時代の村と、現実のそれとでは大きな隔たりがあることを指摘しておきたい。 『七人の侍』に登場する百姓たちは、侍たちの指導の下、竹やりの稽古をする。 けれども、戦国時代の百姓たちは刀も槍も弓矢も持っていた。 だから竹やりで戦う必要はない。 拙著『一揆の原理』にも書いたが、 農民が竹やりを武器として戦ったのは、明治初期の新政反対一揆だけである。 また、『七人の侍』の百姓たちは盗賊たちにおびえるばかりで、士気が低く戦闘経験もなさそうだが、戦国時代の村は始終戦っていた。 それも盗賊の襲撃に対する自衛の戦いではない。 近隣の村と土地や用水をめぐって殺し合いをしていたのである。 琵琶湖北岸に菅浦(長浜市西浅井町)という集落がある(筆者撮影)。 1445年、菅浦は日差
本島等(前長崎市長)は広島への原爆投下は当たり前であったと発言して議論を呼びました。しかしその発言の真意はどうもわざとねじ曲げられて受け止められているように思えます。それを確認するため、以降に本島氏の原爆に関する発言をいくつか掲載します。 最初は原爆ドームの世界遺産登録を批判した「広島よ、おごるなかれ」(1997年)です。これは広島平和研究所の雑誌「平和教育研究」VOL.24(1997.4)に掲載されたものです。(日本原爆論大系第7巻 日本図書センター 1999に収録) ========================= 「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」 本島等(前長崎市長) 平和教育研究(24)(1997.4) 1.中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録 メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録される
10月30日に韓国の大法院(最高裁に相当)が「元徴用工」に対して、計4億ウォン(約4000万円)の支払いを命じた判決に対する批判が、日本で収まらない。日本政府は、過去に日韓両政府が合意した内容を否定するものとして、「日韓関係の法的基盤が揺らいでしまう」「100%、韓国側の責任において(解決策を)考えることだ」(河野太郎外相)と強く反発し、韓国政府の対応を求めている。文在寅大統領は判決について発言しておらず、対応に困っていることがうかがえる。 しかし、大法院の判決文を熟読すれば、「韓国側の約束違反」というだけではない、日韓国交正常化時の「闇」も浮かんでくる。 募集広告と全く違う苛酷な労働 判決文はA4用紙約50枚にわたる膨大な量だ。原文にも目を通したが、判決文独特の表現が多いため、正確に理解するのが難しい。そこで日本の有志の弁護士が日本語に仮訳したものを参考にしながら、判決文を熟読してみた。
愛国顕彰ホームページ 祖国日本 ふるさと にっぽん 貴方は自分が生まれ育った国 日本に誇りを持っていますか 第一部 殉 國 之 碑 じゅんこく の いしぶみ くにのため いのち捧げし ますらをの いさを忘るな 時うつれども 更新日:2020年05月08日 ページ更新 「鎮魂の霊地/拓魂公苑、厚木空神社、乃木神社、大阪城、佐世保海軍墓地、釜墓地」 ・・・更新履歴をご参照ください 目 次 は じ め に 英 霊 更 新 履 歴 項目別索引 海兵73期 勝山 淳 峯 眞佐雄 血染の鉢巻 回天特攻隊 小灘 利春 岡田 純 久保 吉輝 甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会・関西甲飛十三期会 公認HP --------------------------------------------- 帝 國 海 軍 艦艇殉難史 果断の提督 海 軍 三 校 予 科 練 術 科 学 校 予 備 学
特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言
6 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/04/25(木) 22:37:38.38 ID:pWOEsA/g0 トラトラトラ 7 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/04/25(木) 22:39:15.00 ID:KDzAl6vj0 東郷ターンだ! 9 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/04/25(木) 22:40:26.33 ID:URLTWGbd0 はい では義和団事件からみていくよー 当時の中国は清。日清戦争を始め列強各国からフルボッコにされてまともに自主権があるのか怪しいレベルで解体されてる これを憂いた人々が集まってできた組織が義和団。なんか義和拳とかいうオリジナル武術で外国人を襲いまくった 当然これに各国が反発。清政府に取締りを命じるが、そもそも義和団は政府を救うを名目にしている集団なので、な
Comment by AiwassAeon 今日学んだこと ローマの政治家は彼の演説がどんな内容であっても最後に「ともあれ、カルタゴは滅ぶべきであると考える次第である」というフレーズをつけた。 ※スレ主さんはこの「ローマの政治家」をマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスの意で書かれています。 <カルタゴ滅ぶべし> 「カルタゴ滅ぶべし」(Carthago delenda est)または「ともあれ、カルタゴは滅ぶべきであると考える次第である」(Ceterum autem censeo, Carthaginem esse delendam)は、ラテン語の言い回しであり、ポエニ戦争におけるカルタゴに対して用いられたローマの政治表現である。 最初の二回のポエニ戦争に於いては、ローマはカルタゴに対して勝ちを収めたものの、北アフリカに於いて海上交易を行っていたフェニキア人が居住していたカルタゴ都市郡(
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