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ブックマーク / gitanez.seesaa.net (25)

  • 作法は急に作れない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日、こんなTweetを見かけた。 半そでワイシャツって、すさまじくその人をオヤジに貶める気がする 確かに。 でも、「確かに」と思う一方で、それは日人に限る、ではないだろうかとも思う。いや、アジア圏は全般的にそうなのかもしれない。 一方、欧米人には半袖シャツを格好よく着こなしている人が少なくない。アメリカ人なんかは実に格好よく半袖シャツを着る。ワイシャツ、カジュアルシャツ問わずだし、スウェットすら半袖だ。 これを体格の問題というのはやさしい。 でも、それだけではないはずだ。それとは別に着方の問題があると思う。サイジングや洗い方、アイロンをかけるか否かなどの全般で、どう着れば格好よくなるかがまだ日人は半袖シャツの着方をわかっていないということもあるのだと思う。 サラリーマ

  • 不味いメシ屋の見分け方と企業サイトのデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ノッケから経験値でものを言って申し訳ないが、不味いメシ屋というのは、たいていメニューが多すぎるという共通項があるように感じてます。しかも単に多いのではなく脈絡がなく多い。得意料理なんて当然ないんだろうなと思わせるメニューの並び。その時点ですこしもいい匂いがしてこない。案の定、事時でも店のなかはがらんとしていたり。 いい匂いのしないWebサイトそれって実は企業サイトでもおなじこと。 やたらとメニューが並んでるだけじゃ、いい匂いはしてこない。 中小企業やらシステム系の企業でありがちなのが、そういう何でもできます的なメニューの並び。で、何屋なの?というサイトになってしまっているところが少なくない。 あーあ、Webのデザインした会社がそのへん、きちんとコーディネイト、デザインして

  • お利口であるのをやめよう: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 既存の尺度で評価できるものはすでにわかっているものだ。当たり前だと評価なものは、そもそも何を当たり前だと思うかの基準かあるから、その基準に当てはまるかどうかが判断できる。 ところが、その当たり前の基準は必ず過去の先例に基づいて形成される。つまり未来において当たり前になりうるものかは判断できない。いや、大抵の場合は当たり前ではないとして弾かれる。 ここにイノベーションの芽を摘む1つの要因がある。 当たり前を疑え新しい何かを見つけたいなら、未来は現在までの基準では判断しえないことをあらためて理解したほうがよい。 いや、自分で新しい何かを見つけるつもりはなくても、新しい何かが生まれてくる芽をむやみに摘んでしまいたくないなら、自分のいまの基準で「それはだめだ」といわないようにするこ

  • 正しい行動を行うための3つのステップ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マーケットをみて顧客をみない。マーケットをみるのも競合他社の動向や流通をみる。いや、いちばん目を向けているのは社内の上司や他部門のことかもしれません。あるいはまわりに目をやる余裕もなく、ただ目の前の自分の仕事を処理するのに精いっぱいだったりするのでしょうか。 それでは売れる商品など、なかなか生まれてくるものではありません。 ヒットするサービスなど、つくれるわけもありません。 自分たちの社内や自分自身の仕事のことにしか目を向けず、外の世界をみることがないのなら、どうして外の世界から評価されるものが生み出されるのでしょうか。 問題を小さく捉えることができないなかには、そうした現状を憂いて、ちゃんとしたものづくりをしたいなどと口にする人もいます。そのものづくりの対象は商品であるこ

  • それでも、デザインの核は装飾である。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すこし間が空いてしまいましたが、「デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」というエントリーを書いたら、「装飾はデザインという行為の一手段に過ぎない」とか、「こればっかりは聞き捨てならない。『装飾』という言葉は違うと思う」といった反論がいくつかありました。 まぁ、ちょっといきなりあれだけを読むと誤解されるかもしれませんね。 でも、そもそも、どうして「装飾」という言葉にそんなに敵対視した感情が起こるのかがわからず、ちょっとびっくりでした。なぜ「装飾」という言葉をそれほどまでに拒否し、「一手段に過ぎない」なんて地位に落とし込めてしまうのか。「装飾」というのは、そんなにも嫌悪の対象になるものであることが驚きでした。 デザインとは問題解決? はい。もちろんで

  • 間違いを犯すなら自分サイズで: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「早く多く間違えよう」へのブックマークありがとうございます。 今回はちょっと補足のエントリーを。 今回もそうですが、間違える云々について書くとき、間違えられる環境であればとか、間違えてもいい場合であれば、といった限定つきで、間違えながら学ぶことへの肯定の意思を示す人がいます。 間違いの粒の大きさでも、それは僕が考えていることの意図とはちょっと違うんです。 何が違うかって、そういう人がイメージする間違いは粒がデカすぎるんです。 そんな粒の大きさで間違ったら、そりゃ、ちょっとやばい場合もあるよねって思えるような間違いの大きさを想定しているように感じます。 でも、僕が「早く多く間違えよう」という場合に想定している間違いというのは、もっと小さな単位の間違いです。いや、些細なことすぎ

  • なぜ、KJ法は失敗するのか?:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 フィールドワークなどの調査で集めた質的情報を、俯瞰的視点と細部に踏み込んだ視点の両方を用いて包括的に分析し、分析結果をメンバー間でしっかり共有しておけるかが重要になります。 ある事実を観察したとしても、 事実を特定の視点による特定の角度からしか観察できないすべてを観察することができず一部のみしか観察できない観察者の意思が働いて、観察結果に事実そのままではない強弱ができてしまう観察者それぞれで異なる見方をしてしまうので、おなじ事実をみても観察者によって解釈が異なる ということが起こるので、観察した結果を、調査後、再度メンバー全員での分析作業により、上記の問題を補う必要があります。 多くの調査がこの分析作業を重視しないので、多くの事実が抜け落ちてしまったり、ゆがめられて解釈され

  • 方法依存症2: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 どうしたらいいかと思うようなことは、たぶん、どうもしなくていいことか、どうにもならないことなのだと思う。 逆に、どうにかしなくてはいけないことなのだとしたら、どうしたらいいかなどと考えているひまがあったら、とっととやったほうがいい。 どうも考えるということを誤解している人が多いのではないか? 実行のともなわない思考はただの時間の浪費でしかない、というのに。 思考即行動頭と身体がバラバラです。自分の身体を見失ってしまっています。 悪い頭にひっぱられて、優秀な身体まで来の能力をどんどん劣化させてしまっています。 当にわかりたければ、わかる前にいわれたとおりに自分でやってみて自分を事例にするしかありません。やってみて何も変わらなければわかっていないということですし、やってみて

  • 残念なデザイン。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うーん。これはいま実感としてすごく感じているところ。 残念なデザイナは、往々にして表面だけの議論をしたがります。「この曲線が美しい」とか。うん、そんなのね、どーでもいいの。こういうヒトは誰かの真似をした"もっともらしい"表面を並び立てるだけ。"なんだか"格好いいけど、深みがない。そして、なによりも応用が利かないから、提案としてとても打たれ弱い。 なんだか格好いいけど、深みがないデザインって、当に残念だということを、いま個人的に身にしみて感じているところです。 上記のエントリーでは、「表面」に対して「構造」の重要性が述べられていますが、僕はその「構造」の部分を「意味」と言い換えたい。 意味を混乱させるデザインその物がもつ「意味」を表現できていない残念なデザインが多すぎる。い

  • マーケティングの用語の使い方が大混乱しています: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「製品中心から人間中心のデザインへ」と「マーケティングとユーザビリティに対するデザイナーの失望」にトラックバックをいただいたので、いちお返事の代わりに書きますが、これだけマーケティング用語の使い方が混乱していて大丈夫? ニーズが手段ってどういうこと?まず、ここ。 ユーザーのニーズを得るのは比較的簡単です。しかしNeedsを満たしても、Needsはユーザーの当の目的ではなくたくさんある手段のうちの一つであることが多いため、ユーザーの当の目的を達成していないということがほとんどなのです。 あのー。マーケティングにおける「ニーズ」という言葉の意味をちゃんとわかって書いてらっしゃいますか? ニーズって文字通り「必要さ」だと思うんですが、それがどうして手段になっちゃうんでしょう?

  • アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと: DESIGN IT! w/LOVE

    これも立派な意見だと思うんですが。 さて、問題は、自分の意見がない場合だ。そういう場合も当然意見が少なくなる。自分はどちらかというとこちら側にあてはまるかもしれない。おそらく何を考えればいいのかがぶれてしまうのだ。 意見をいわなくてはいけないとか、むずかしく考えすぎてるんじゃないでしょうか? そりゃ、時が来れば自分の意見を求められる場面もあると思いますけど、アウトプットを増やさなくてはいけないのは、そんなタイミングじゃないんですね。もっと前、ずっと前の段階です。自分の意見を言わなきゃなんていう最後のタイミングのことばかり考えちゃうから間違うんですね。 むしろ、アウトプットができない人がまずやるべきなのは、相手が話しているあいだの自分のインプットを増やすことだと思います。 ようは次の3つ。 オウム返しをする質問をする相手の話の良いところをほめる ここでいう相手は、あなたに何か課題をあたえる人

  • 2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「今日のびっくりどっきりメカ発進!」でのびっくりどっきりもあって、今日はなんとなく気分が冴えませんでした。 世の中の人って、いまや予測ができないこと、計算できないことを、あんな風に厭い、恐れるものなんでしょうか。何かを知るということのリスクを極力減らそうとし、自分だけは安全で楽なところから物事を操作しようとするのでしょうか。 はっきりいって、それなら学習や勉強をする必要なんてないと思います。 「多読術/松岡正剛」というエントリーで、松岡正剛さんが〈読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、を読めばそのが自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です〉と言っているのを紹介しました。リス

  • Webマーケティングを組み立てる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ここ最近(というか、すくなくとも1年以上は)、Webマーケティングに関する話題を書いていなかったが、今日はそういう気分なので、ちょっと自分の知っていることを整理してみる(なんとなく自分的には原点のひとつに立ち返ってみようという気になったので)。 最初にこれだけは書いておこう。 はじめにラフな形でも売れるしくみの絵が描けていなければ、マーケティング・コミュニケーションは成功しない、と。最初は木を見るのではなく森を見る視点が必要なのだ、と。 時間は何より大事なので、絵はコミュニケーションをはじめる時点では一部は「絵にかいた」であってもよいが、全体の売れるしくみの絵すら描けていないのであれば、成功はおぼつかない。 やってみないとわからないというのは「絵にかいた」があってはじめ

  • 方法依存症: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 方法論の収集ばかりに明け暮れている人を、仮に方法依存症と名づけてみたい。 方法依存症に値するもうひとつの条件は、方法論を収集している割にその方法を使ってうまくいったことがすくないということである。 これはもったいない。意欲があるのに空回りしてしまっているのだから。 そこで、このことについてちょっと考えてみた。 まず、そのことを考えていくにあたって、方法を区別してみる。 形式知化された方法と暗黙知的な方法に。 形式知的な方法:例えば、KJ法形式知化された方法とは、方法に含まれるタスクの内容が明文化でき、かつタスクを行う手順やプロセスが明記されているものをいう。逆に暗黙知的方法とはそうでないものを指している。 例えば、KJ法であれば、 最初に単位化された情報を書き込んだ束を作成

  • デザインする人に必要な能力は?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 発作的に、なんとなくデザイン(企画・設計)をする人に必要な能力なるものをまとめてみたくなったので実行(ようは自分の頭のなかを整理するため)。 もちろん、ここでいう「デザイン」は、ある問題を発見して解決するためのプランを考え実現させることをいう。なので、決して狭義のデザイナーのことではありません。 で、そういう意味での「デザイン」をする人にとって必要な能力をまず、ザクッと分類すると以下の4つに分けられるのではないか、と思います。 知る・感じる・疑問に思う解釈する・発想する・組み立てる具体化する・検証する・洗練させる仕事をはじめ、終わらせる どれもデザインをする上では欠かせない。 というわけで、ひとつひとつ整理していくことにします。 知る・感じる・疑問に思うスタート地点はやっぱ

  • 要件、要素、分類と構造化、そして、視覚化・振る舞いの検討へ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「人間中心設計プロセスでの具体的なデザインへの落とし込みの技術に関する理解不足について」の続きとして。 結局、インタラクティブな製品のデザインというのは、きわめてシステム設計的なものだと考えたほうがいいと思っています。製品、利用者を中心に、それが用いられる利用環境も含めた大きなシステムを想定した設計が必要だと捉えたほうがやるべきことが明確になってくるのではないかと思います。 各段階でのアウトプットから見たUIデザインのプロセスきわめて概念的にモデル化してしまえば、作業のステップは各段階で以下のようなアウトプットを作成しながら進むと考えればいいと思います。 コンテキストシナリオペルソナが製品を利用する際のコンテキスト、行動を物語として示したもの要件の定義コンテキストシナ

  • 恋愛上手とユーザー中心のデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 しばらく前から、ユーザー中心デザインって結局、恋愛上手になるのと似てるなと思いはじめています。 まず恋愛上手/下手に影響を与えるパラメータってこんな感じで4つに分類できるかな、と。 インプット力:相手に興味を持ち、どれだけ相手を知ることができるかアウトプット力:相手の望みに応えるためのアウトプットをどれだけ提供できるか基スペック:アウトプット力の範囲外である基性能(容姿、年齢、収入)経験値・価値観:アウトプット力の範囲外で、かつ基性能的でないもの(その時点での経験値、趣味や好み、志向性や価値観など) この4項目のうち、基スペック自体は自由に変えられるものではないですよね。基スペックを相手が重視する場合であれば、いかなる恋愛上手でもいかんともしがたい場合はあるでしょ

  • デザインへの理解を深める: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「Webデザインへの理解を深める」からインスパイアされて。 デザインとは、どうつくるかではなく、どう使われるかを考えることだと思います。 どうつくるか(ものからの視点)以上に、どう使われるか(ユーザーからの視点)を考えることを重視するからこそ「みんなで手を動かしながら考える」ことが必要で、そのプロセス自体をデザインしなくちゃいけないのだと思います。 どうつくるかは、デザインにとっては二義的です。 どう使われるかを考えぬいたうえで、使える状態を実現するために必要になる問題です。 もちろん、どうつくるかを考えることは大切なことだけど、デザインの第一義的な問題ではありません。 デザインするということは、制作することとは違うというのが前提です。 制作会社は必ずしもデザイン会社ではあ

  • 創造の現場における「知っている」ということ「身体が覚えている」ということ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ブルーノ・ムナーリは『モノからモノが生まれる』のなかで「企画するのは、そのやり方を知っていれば簡単なことである。問題の解決に至るための方法を知っていれば、どんなことも容易となる」と言っています。また、『ファンタジア』では、子どもに創造の喜びを教えるワークショップを行うポイントとして「保存されるべきものは、モノではない。むしろそのやり方であり、企画を立てる方法であり、出くわす問題に応じて再びやり直すことを可能にさせる柔軟な経験値である」とも言っています。 確かに、そのとおりでやり方・方法を知っていれば、新たな問題に出くわしても焦ることなく手持ちの方法を引き出しから選んで対応することができます。問題の解法を「「わかる」ためには引き出しを増やさないと」いけないのは前にも書いたとお

  • みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨夜、「ユーザー中心のデザインは「みんなで手を動かしながら考え」なきゃ進まない」というエントリーを書きましたが、どうしてユーザー中心のデザインで「みんなで手を動かしながら考える」ことが必要なのか?という点を、いまひとつ自分でもうまく説明しきれていないと思ったので、あらためて図なども使いながら整理してみようと思います。 まず、「どうして?」に対する「なぜならば」の答え。 それは、人びとの生活をよりよいものにすることを目的(デザイン問題)とする、ユーザー中心のデザインでは、単にものをデザインするのではなく利用者の経験価値や暮らしそのものがデザインの対象となるため、直接的にはものやサービスのデザインをするにしても、そのデザインに関わるチーム全員がユーザーの行動やそれにともなう心理