世界の紛争地帯で最も多く使われている自動小銃AK47、通称「カラシニコフ」を設計したロシアのミハイル・カラシニコフ氏が亡くなりました。 94歳でした。 これは23日、カラシニコフ氏が住むロシア中部のウドムルト共和国の地元政府が発表したものです。 カラシニコフ氏は、先月から療養を続けていた地元の病院で死去したということです。
これは読まずにはいられなかった。成文社はいい仕事をするなあ。ロシアのオリエンタリズム―ロシアのアジア・イメージ、ピョートル大帝から亡命者作者: デイヴィド・シンメルペンニンク・ファン・,浜由樹子出版社/メーカー: 成文社発売日: 2013/06メディア: 単行本この商品を含むブログ (2件) を見る 原書は,David Schimmelpenninck van der Oye, Russian Orientalism: Asia in the Russian Mind from Peter the Great to the Emigration (New Haven: Yale University Press, 2010)*1。こんな分厚い専門書が原書発売から3年で邦訳されるとは,訳者も出版社も実にすばらだと言うほかない。 なお訳者は以前同じ出版社から『ユーラシア主義とは何か』(成文社,
と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 本文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が
アファーマティヴ・アクションとは、アメリカの歴史や政治で使われる用語である。 差別に苦しめられてきたエスニック集団の人びとを優遇する政策のことだ。著者は、ソ連こそ世界史上初めて少数民族のためのアファーマティヴ・アクションを実現した国家と考える。地元民幹部の積極的登用や民族語の公用語化などがその具体例である。 レーニンやスターリンは、ナショナリズムの巨大な力を見抜き、これを社会主義に利用するために民族の枠組や形式をつくることで、反革命を団結させるナショナリズムの力を骨抜きにしようとした。ナショナリズムの武装解除を、民族らしい形式を整えながら実現しようとした戦略こそ、「アファーマティヴ・アクションの帝国」だったというのだ。 ナショナリズムは動員力のある極めて危険なイデオロギーであり、階級を超える結束をもたらしかねなかった。レーニンたちは、民族意識も歴史が通過すべき一段階であり、非ロシア人による
ソ連介入後のアフガニスタン内戦 ~ムジャヒディン闘争史~ 決して「穏やかな気候」とは言えないだろう。中央アジアの南に位置し、イラン・パキスタンに国境を接しているアフガニスタンは、冬になるとヒンズークシの白峰から吹き下ろす寒風に身をさらすことになる。冬は全ての活動を停止させる。この国の血なまぐさい主導権争いですら、その掟の前には従わざるを得ない、、、 1978年12月、北方から最新近代兵器で武装したソ連軍が侵入、「シルクロード」の要衝として栄えたその地は、激しいゲリラ戦の舞台に様変わりした。そして冷戦終焉間際の1989年2月、約10年間続いたソ連の介入は「撤退」という形で終わる。反ソゲリラの英雄たちはイスラム国家の樹立を夢見て連合政権を発足させるも、失敗。以後、今日まで血で血を洗う内戦が続いている。 今回、わたしはゼミの研究地域としてアフガニスタンを選んだ。一応「ソ連介入後」と銘打ってはいる
久しぶりにロシアに関する本を読んだ。その本が色々と面白い論点を含んでいたのでここでレヴューしてみる。呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌作者: 藤原潤子出版社/メーカー: 人文書院発売日: 2010/06メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 5回この商品を含むブログ (2件) を見る 本書は次のような構成を取る。序章「呪術の『リアリティ』」(pp.9-47)第1章「呪われたナターシャ――『体験』されてしまった呪術の物語」(pp.49-109)第2章「世代を超えて伝えられた秘儀」(pp.111-147)第3章「呪術の『科学』化と無神論の『克服』」(pp.149-183)第4章「マスメディアが作りだす新たな呪術ネットワーク」(pp.185-221)第5章「呪術実践を支える学術成果」(pp.223-247)終章「時空を超えて循環する知識」(pp.249-254) 本書で扱われ
中世の兵士や戦争を再現したロシアのフェスティバル ロシア周辺の歴史と文化に敬意を表そうと、9〜11世紀ごろの騎士や軍隊を再現するフェスティバルが催されたそうです。 中世の騎士や戦士たちに扮した人々の、迫力あるチャンバラごっこの模様をご覧ください。 装備を携えて並ぶロシアの人々。 9〜11世紀というとキエフ大公国の時代で、ヨーロッパでは十字軍の遠征などが行われていた頃。 小さい斧のような槍の穂先が特徴的。 敵軍を挑発する兵士。当時のならわしなのでしょうか。 乱戦状態。 一騎打ちも始まりました。 まるでRPGの戦闘シーン。 盾で体当たり。 鍛冶屋さんもいます。 ごっつい兜。 やはり現地の人がかぶると様になりますね。 バグパイプはスコットランドのものが有名ですが、アイルランド、スペイン、ポーランド、トルコ、バルカン半島など広い地域に存在しているそうです。 女性の民族衣装。 そしてやってきた騎兵。
地球人の歴史 13.火器の帝国 ギリシアの火と中国の雪 717年、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの城下にアラブ兵の大軍勢が姿を現した。都の南に広がる海も、無数の軍船によってうめつくされた。これは、ウマイヤ朝カリフのスライマーンが宿敵ビザンツを滅ぼすべく送り出した大遠征軍であった。 都の陸側は高さが最大17mにおよぶ三重の城壁が連なり、突破はほぼ不可能だったから、アラブ軍の攻勢は比較的弱い海側に向けられた。ところが、城壁にとりつこうとした船は一隻、また一隻と焼かれては沈み、攻撃は無惨な失敗に終わってしまう。 このときビザンツ艦隊が用いた秘密兵器が、「ギリシアの火」である。生石灰、松油、硫黄を混ぜた液体らしく、筒から噴射されると炎を発し、海面でも燃え広がり、水をかけても消えなかったという。決定的な役割を果たした最初の「火器」といってよい。 このしばらく後、中国・唐王朝のもとでは、激し
以下の記事を読んでちょっと考えた。 (……)欧米も植民地に学校を作ったし、人口は増加した。日本は欧米と違い、現地人を平等に扱ったというが、その証拠は日本語教育や日本文化の注入などの同化政策であり、19世紀フランスの同化主義や、19世紀後半のロシアの同化政策を全く無視している。日本も欧米の植民地になったとして、何が問題なのか? - 上田亮の只今勉強中 そもそも19世紀後半のロシアに「同化政策」なんてあったのかしらん? イギリスのロシア史研究の大家,ドミニク・リーヴェンは次のように指摘する。 (……)ロシア帝国は伝統的に,イギリスよりはるかに同化主義的で,かなりの数の貴族ももともとはタタール人や遊牧民の出身だった。しかし,19世紀までにロシア人エリートの西洋化が強く影響し,非ヨーロッパ人を同化させようとする意欲も萎えてしまった。ロシアでは,遠い将来はともかく,おそらく同化不能で,ロシア皇帝の普
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