大辻清司の写真は常に「何かについての写真」であるように見える。それはすなわち、作品についての写真であり、時代を主導する美術ムーブメントについての写真であり、機械や科学についての写真であり、批評についての写真であり、そして写真についての写真でもある。だが、考えてみれば、写真とは、誰が、どのように撮ろうとそもそも「何かについての写真」なのではないだろうか。それは世界の事物を光りによって捉える光学システムとしての写真の不可避の条件であるはずだ。大辻清司は、そのことを正面切って捉えていた写真家なのであり、その作品は「何かについての写真」であることを追求することによって、いつしか写真それ自体として自立するという、静かだが遅れてやってくる力のようなものを感じさせる。既に終わってしまったが、松濤美術館での「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」展を見て感じとれたのはそういう事だ。 簡単に言えば、大辻