ブックマーク / eyck.hatenablog.com (23)

  • バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁でのバルテュス - paint/note

    東京都美術館でのバルテュス展は、展覧会としてはあまり「冴えて」いない。会場ではいろんな仕掛けを施して、いわばバルテュス神話=孤高かつ独自の美意識をもった巨匠画家、といったイメージを強化しようとしているのだけれど、作品の展示自体があまりに作品が求めるものとずれているために、ことごとくその神話の形成に失敗している。ではダメな展覧会なのかというとそうでもなくて、いわば演出しようとしてしきれなかった雰囲気の中から、逆にむき出しの作品が見えてきて、結果的に冷静にバルテュスを見ることができる。 ごく簡単に、おそらく少しでも美術を見慣れているものなら、バルテュスがまったく「孤高」ではないことが一目でわかる筈だ。明示的に模写なども展示されていたピエロ・デッラ・フランチェスカの影響のほか、あからさまに近い時代の作家からも様々なものを導入している。シュルレアリスムでいえばキリコなどがわかりやすい(デルボーも似

    バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁でのバルテュス - paint/note
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    blackspring 2014/05/28
     「絵画を見ることが・・・あくまで認識の水準にあるのだとしたら・・・今回の展覧会の明白な俗っぽさは、はからずしもバルテュスの、画家としての裸の力量をきっちり示しえていた」
  • 超お化け屋敷・横浜トリエンナーレ2011 - paint/note

    横浜トリエンナーレ2011「OUR MAGIC HOUR−世界はどこまで知ることができるか?−」。この催しが特に水準の高いアートイベントではないことを指摘しても仕方がない。かつて椹木野衣は現代美術を「東京ディズニーランドと勝負できるか」と言ってみせてカウンターとしていたが、横浜トリエンナーレ2011はむしろ「としまえん」や「富士急ハイランド」のお化け屋敷と比較してもいいのかもしれない。私は「としまえん」の、しかも「お化け屋敷」に《めくるめくような刺激》を求めたりしない。家族や友人、恋人と「としまえん」の「お化け屋敷」に行くことは、むしろその「ゆるさ」や「すべってる感じ」を媒介にすることでお互いの関係を繋ぎなおす契機とするためだろう。また、そのことで世界と自分の結びつきを結果的に把握しなおすことができれば最良の結果だろう。横浜トリエンナーレ2011はそんなに悪くないお化け屋敷だったのではない

    超お化け屋敷・横浜トリエンナーレ2011 - paint/note
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    blackspring 2011/10/26
     つぶやきまとめてみた → http://blackspring.posterous.com/2011
  • 非ビエンナーレとしての所沢ビエンナーレ - paint/note

    所沢ビエンナーレ2011が終わってしまった。私は一回見に行ったのだが、かなり面白かったので会期中にもう一回は来たいな、と思っていた。しかしかなわなかった。Twitter上での反応を見ると賛否両論で、私はこの反応自体が今回の所沢ビエンナーレの「成功」を意味していると思う。なぜなら今回の所沢ビエンナーレの特徴は「非ビエンナーレ」「非アートフェスティバル」と言っていい性格を持っていて、いわゆるビエンナーレ的なイメージを持って行けば基的に肩透かしを喰う確立が高いからだ。では絶賛なのかというとそうではない。面白さを感じた上で、違和感がなくもないので、その点も自分ではっきりさせるためにこの文章を書こうと思う。 一般的に近年国内各所で開かれるアートビエンナーレ、あるいはアートフェスティバルで目論まれている(あるいは必要とされている)のは広義のコミュニケーションだと思う。来場者と作品のコミュニケーション

    非ビエンナーレとしての所沢ビエンナーレ - paint/note
  • ■ - paint/note

    長谷川等伯展を東京国立博物館で見ていた。キャッチコピーが「絵師の正体を見た」というものだったのだけれども、私の感想は真逆で、等伯という画家が、一人の個人という意味ではわからなくなった。端的にいえば出品作があまりにもばらばらで、核のようなものが見出せなかった。コピーに反応して言うなら「絵師の正体が見えない」展覧会だったということになる。これはまったく、展覧会をけなしたり文句をつけたいということではない(いくらなんでもそのコピーはなかった、とは思うけど)。狩野派の外部に、それと拮抗するようにあったある「絵」の潮流が複数あって、その全体が「等伯」という名のもとに亡霊のように、あるいは雲のように名指されている、そんな感じだろうか。しかし、それでもやはり等伯は等伯なのだと思う。その上で、展覧会としてはとても面白かった、といっておきたい。 ばらばら、というのは、作品の形式、たとえば肖像画から障壁画から

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    blackspring 2010/05/08
     長谷川等伯
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    芸術や、芸術を学ぶ事が役に立たないとか浮世離れしている、みたいな言葉は間違っている。芸術が、自分と、自分の周りの世界の関係を、材料や概念や言語・記号等の操作を通じて把握し、より積極的に組み替えていこうとする思考のことだとすれば、それは、この世界で生きて行こうと思う人には、専門に学ぶかどうかに関わらず常に必要なものになる。もっと極端に言えば、分節のない混沌(自然)の中に、自立した系を仮構して、その系が常に周囲の混沌(自然)と一定のやりとりをしながら代謝していくこと、つまり生物というものの最も基的な(ゾウリムシとかボルボックスとか)姿に「芸術」というものの核は見いだせる。それはけして工学的なものに還元されない。混沌と系の間にあるものが単なる等価交換(工学的循環)ではないということ、例えば「より積極的に」と言った瞬間、そこには価値判断が必ず生まれる。 等価交換(工学的循環)であったら、系と混沌

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    JR上野駅の正面玄関口(映画「おもひでぽろぽろ」でも丁寧に描写されていた猪熊弦一郎の壁画がある)エントランスの2F、いまひとつ上手に再利用できずに残されてしまったかのような空間で、改装休館中の東京ステーションギャラリーの企画による、「現代日絵画の展望」展が行われている。ここは第二会場で、別途第一会場があるようだ。私は上野しか見ていないが、ここに関しては作品の質はけして良くはない。あの辰野登恵子氏の作品すらイマイチに見える程だ。休館中でもこのような隙間的な場所を利用し展覧会を運営している東京ステーションギャラリーは素晴らしいと思うし、しかもその内容が現代作家の絵画展というのも特筆すべきなのだけど「展覧会のための制作を依頼」したという形式は、少なくとも全面的に成功したとは言えないのではないか。 ここに山麻友香氏と山口啓介氏がペインティングを出品していて、その事実と内容に少し驚いた*1。山

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    blackspring 2008/02/11
     「現代日本絵画の展望」展
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    東京国立近代美術館で「わたしいまめまいしたわ」展を見た。細部はともかく全体には面白かった。この展覧会は、京都国立近代美術館や国立国際美術館、そして東京国立近代美術館自身の所蔵の作品群を「現代美術にみる自己と他者」という問題設定で再構成したもので、まずこういう「資産の再利用」的な方法論で、今なかなか大規模には組織しづらい同時代の美術の展覧会をやってみるという試みは、現在の条件に対する美術館の抵抗の所作として理解できる(逆を言えば、国立の美術館であってもこういう工夫をせざるをえないということなのだけど)。私は以前、国立新美術館のオープニング企画展「20世紀美術探検」について、この「美術センター」の“構造”あるいは“文脈”を批判するという立場から、その既存美術館のコレクションを再利用した展示にネガティブな評価をしたことがあるが(参考:id:eyck:20070307)、このエントリでもあちこちの

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    blackspring 2008/02/07
     「東京国立近代美術館で「わたしいまめまいしたわ」展を見た」
  • ■ - paint/note

    宇治の平等院鳳凰堂は、やはりというかなんというか、「美」でしかないものだと思う。「真」あるいは「善」というものが存在しない。これが法隆寺と同じ「寺院」にカテゴライズされる事がぼくには了解できないのだが、しかし、では建築としてどのようにジャンル分けできるかと言えば、どこにも当てはまるものがない。東大寺南大門のように構造がそのまま装飾になっている、というのではない。構造が、構造という側面と装飾という側面の二重性を持っているのではなく、いわば自立した装飾体が平等院鳳凰堂という存在になっているのだと思う。おそろしく繊細な組木細工が、そのまま大きくなって建築的スケールを獲得したと言い換えてもいい。「見られること」を意識した造形は映画的で、実体がそこにあるにもかかわらずどこまでいってもイリュージョンにしか見えない。思わず感動してしまい、その感動の強さに思考が停止してしまう。そしてその感動は、どこまでい

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    古代から中世にかけての寺院というのは、いわば当時の人々=各端末に宗教というOSをインストールするためのハードウエア/ソフトウエアみたいなものだったのだろう。法隆寺は、古代の土俗的なOSしかもちあわせていなかった日人に、仏教という巨大かつ精密な最新OSを上書きするための、最初とは言わないまでもかなり初期のシステムといって間違いがない。細かな地域領主の脆弱な連合体であった極東の群島を、大和朝廷という統一された構造として組み立て直すために、ハイ・テクノロジー先進国である中国から輸入されてきた、まったく馴染みのない人工的なシステムが仏教で、それは寺というハードウエアがなければ走らないプログラムだったわけだ。世界遺産があるとは思えないほど静かで人気のない朝の斑鳩町を歩いた先にある西院伽藍を見ていると、立体的に各パーツが連結された回路のように感じられた。 法隆寺の伽藍を構成する各構築物とそこに納めら

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    京都・岡山・四国行きが迫って来た。秋口の京都の宿を取るというハードルをこなしたらすっかり気が弛んでしまい、ちっとも準備を進めないでいたらこんな直前になってしまった。以前ここで書いたのと予定が少しずれ、京都に先に行って岡山・琴平と回るルートを設定したのだが、なんだが事実上京都は「狩野永徳展」だけになりそうな雲行きだ。これは準備が途中でストップしたもう一つの理由に繋がるのだが、桂離宮の予約がとれなかった(というかトライもできなかった)のが大きい。考えてみればあたりまえなのだろう。10月下旬の桂離宮なんて、最も人気がある季節なのではないだろうか。キャンセル待ちをする気にもならなかった。宮内庁のサイトを見れば、1日6回、1度に4人しか入れない予約はとっくに一杯になっていた。もう一つ考えていたのが神護寺なのだけど、目玉の伝源頼朝像(米倉迪夫説によれば足利直義像)は5月にしか公開されていないそうだ。こ

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    先行する古典的な美術を見る時に、現在の人間である僕が基盤としうるものとはなんだろうか。それは、けして美術史的な知識や時代背景に対する理解などではなくて、もっと単純に、引かれた線の冴えとか、顔料の滲みに含まれた逡巡の面白さとか、組み上げられた構造の複雑さとか、逆にシンプルであるが故の力強さや明解さだとか、色彩の美しさとか、そういうごく当たりまえの、表面に見えるものの魅力にある。同時に、そういう「表面に見えるもの」というのは結構文脈や立場に左右されてしまう。目があれば何でも見えるわけではない、というのは、目(視覚)というのは物凄く制度的なものだからだ。文脈や政治の強さを自覚しないで軽視するものほど、そういうものに簡単に支配されてしまう。僕は作品と対する時(制作の場面でも鑑賞の場面でも)、社会的な文脈とか流通しているイメージとかを極力排していこうとするが、それは、いかにそういうものから自分が自由

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    なぜモダニズムは批判され、終わったと宣言されつづけているのかと言えば、物凄く乱暴に言えばそれがアウシュビッツとヒロシマを産んだからだと思う。このことを押さえておかないと、モダニズムの再検討をしているというつもりで、いつしかモダニズムの持つ暴力性や植民地主義の無自覚な反復を肯定してしまうことに繋がる。様々な領域で展開される脱モダニズム的な運動、あるいは構造主義とそれに続くポスト構造主義的な運動というのは決して一過的なムーブメントとしてかたずけていいものではない。少なくとも、その動機としては、20世紀の驚くべき暴力を繰り返さないという切実さ、恐怖と言ってもいい地点から摸索されたものの筈なのだ。モダニズムは終わった、のではなく「終えなければいけない」ものであって、だからこそ多くの人が性急に、かつ繰り返し近代にピリオドを打ち続けたのだと思う。 近代、という言葉を最も象徴しているのが1920年代から

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    国立西洋美術館で「パルマ」展を見て来た。僕は趣味的にコレッジョの描くマリア像を愛好していて、それが目当てだった。通俗的な意味で可愛いマリア像を描く画家で、たぶん良い勝負をするのはムリーリョの「無原罪の御宿り」シリーズくらいなものだろう。僕は学生の頃、レオナルド以降の西洋美術史にまったく興味がなくロマネスクやビザンチンの宗教美術を中心に、かろうじてボッティチェルリくらいまでの初期ルネサンスあたりを追っかけていた。卒業後しばらくしてその頃のフレスコや古典絵画等を石膏版画という独特の技法を使って模写していた時期があるのだけど、アンドレイ・ルブリョフやフラ・アンジェリコに混ざって、珍しく16世紀以降の画家で石膏版画のモチーフにしたのがコレッジョの聖母だった。 今回の展示では3点の美しいコレッジョに出会える。フレスコを移した「階段の聖母」、油彩の「キリスト哀悼」「幼児キリストを礼拝する聖母」がそれで

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  • paint/note - 東京藝術大学美術館で「金刀比羅宮書院の美」展

    東京藝術大学美術館で「金刀比羅宮書院の美」展。これは充実した展覧会で、同館で開かれている広重展と併せて見ごたえがある。展示は金刀比羅宮の書院の間取りに基づき襖絵を再配置するもので、出品できないものは高精度な複製を置き、やりすぎない程度に、なおかつある程度襖絵の空間感覚を把握できるよう工夫されている。当然現場を知る人には物足りないだろうし、大きくはない美術館だから制限も大きかっただろうが、東京で見るならこれ以上を求めるのは難しいのではないか。何がいいかといって「やりすぎない」というところだ。作り物は最小限にとどめ、あくまで作品が見えて来るように、無理に再現できないところは諦めてすっきりやっている所に作品位の姿勢が感じられる。要は作品より“展示”をみせようと頑張ってしまう末転倒なものではないということだ。過去に東京国立博物館で「国宝 大徳寺聚光院の襖絵」展の優れた展示があったが、ややそれに

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    山種美術館で見た福田平八郎「筍」について。1947年に描かれている。絹着色で縦134cm×横99.4cmの大きさがある。画面向って左下に縦に長く黒々とした皮に覆われた筍が1あり、画面中央を空けて右側やや高い位置にもう一筍がある。背景は薄い墨色の線で単純な形にされた笹の葉が折り重なっていて、一様に覆っている。筍は2とも緩やかな曲線の三角形を左向き、右向きと組み合わせながら積層させ、頭頂部で面積を細かくし細く引き延ばした紡錘状のフォルムを形成させて現す。各三角形の頂点に小さな緑の三角形を描き、葉としている。この緑の下では三角形の黒が薄くなり黄色の色面が配される。三角形の辺は描き残しのような白い線で示される。このパターンは積層されるごとにくり返されるが、単位の細かくなる頭頂部では密となり上部に縦に葉が添えられている。構造は二の筍で同じくくり返されるが、左下の筍のほうが長い。一筆書きに近

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    大辻清司の写真は常に「何かについての写真」であるように見える。それはすなわち、作品についての写真であり、時代を主導する美術ムーブメントについての写真であり、機械や科学についての写真であり、批評についての写真であり、そして写真についての写真でもある。だが、考えてみれば、写真とは、誰が、どのように撮ろうとそもそも「何かについての写真」なのではないだろうか。それは世界の事物を光りによって捉える光学システムとしての写真の不可避の条件であるはずだ。大辻清司は、そのことを正面切って捉えていた写真家なのであり、その作品は「何かについての写真」であることを追求することによって、いつしか写真それ自体として自立するという、静かだが遅れてやってくる力のようなものを感じさせる。既に終わってしまったが、松濤美術館での「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」展を見て感じとれたのはそういう事だ。 簡単に言えば、大辻

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  • paint/note - アニメーション「電脳コイル」で最も注目すべきはその身体性へのこだわりだ

    アニメーション「電脳コイル」で最も注目すべきはその身体性へのこだわりだ。ネット環境を近未来の子供達にとっての“原っぱ”、つまりフィールドとして捉え、そこで展開する子供たちの心理関係を描いているこの作品は、様々なITガジェットをちりばめながら、しかしその実、リアルな場を駆け抜け、飛び跳ね、転びつつ起き上がるという、少年少女達の体と運動を捉えていることこそが特徴になっている。 広域無線LAN都市のように設定された地方の町は、ネット端末であるメガネをかければ、街路でも公園でも可視化された情報が受け取れ、また発信することができる。情報技術に熟達した子供達は、管理されていない情報空間の破れ目や抜け穴に、独自の物語りを読み取り、それらを追って縦横無尽に移動してゆく。彼等は自らのカスタマイズしたネット端末(メガネ)を取り締まる大人から逃げるため、あるいはネットにしかない謎やドラマを追う為、塀によじ登り、

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    東京芸術大学の陳列館で行われている「《写真》見えるもの/見えないもの」展が面白かった。美術館で開催中の「パリへ」展とコレクション展を見に行く事が主目的だったのだが、格としては上の美術館での展示物、ことに「パリへ」展での作品が、いくつかの例外もあるといは言え全体に「日の近代化過程での西洋の受容」という社会的な文脈抜きでは成り立たない作品が多かったのに比べて、むしろ現在の状況論としての側面も大きいはずの陳列館の《写真》展の方が、作品単独で鑑賞に耐えるものの比率(点数、ではない)が高く、また展覧会としてのコンセプトもしっかりしていた。 だが、この《写真》展自体にも逆説がある。つまり、最もアクチュアルに見えてくるのが、現役の(多くは若い)作家達に混ざって展示されている中山岩太、榎倉康二、大辻清司という3人の物故作家の作品だという点だ。そういう意味ではカタログに収録されている光田由里氏の「メタ写真

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    blackspring
    blackspring 2007/06/12
     6月17日まで。
  • paint/note - 森美術館でコルビジェの展覧会を見て来た

    森美術館でコルビジェの展覧会を見て来た。ずいぶんと工夫が凝らされ、またお金も十分にかけた企画のようで、資料と模型と写真の羅列になりがちな建築家の展覧会としては見ごたえがある。ことにコルビジェのアトリエ、集合住宅の代表作であるユニテ・ダビタシオンの一室、晩年のカップマルタンの小屋という、中に入ることのできる実寸大模型は、空間のサイズが実感できて面白い(実作を知っているひとから見れば、細部やテクスチャの再現が気になるだろうけど)。僕が知る限り絵画まで展示するようなコルビジェ回顧展は、1996年に池袋のセゾン美術館で開かれたコルビジェ展以来で、ボリュームだけ見れば当時のものを大幅に上回っている(質の判断は微妙だが、ここで「昔の展示の方が良かった」とは安直には言いたく無いし、事実上きちんと思い出せない展覧会と比較するのも不当だろう)。この展覧会の主眼は、コルビジェを一種の総合アーティスト、絵画や彫

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  • paint/note - ワタリウム美術館でブルーノ・タウト展を見て来た

    ワタリウム美術館でブルーノ・タウト展を見て来た。展示されていたのはタウト建築の写真と模型、それに多数の手紙と日滞在時の工芸デザインの仕事、他にはスケッチやタウトの撮影した(下手な)写真などだ。いつも思うのだけど、「建築(家)の展覧会」というものほど奇妙なものもない。まず実際の建築作品そのものは最初からたいてい排除されているし(例外は取り上げられた建築家の建物の中で展覧会が行われる時だろう)、そこで見ることのできるのは周辺的なもの、あるいは断片的なもので、事前にその建築家のことなり作品なりをある程度知っていないと、何がなにやらさっぱりわからない場合もある。つまり、見る事のできる断片が、なかなか作家の全体像へと繋がらない。だが今回の展覧会が興味深いのは、ブルーノ・タウトという人の建築家として特殊性というか、こういった資料やメモ、あるいは風景スケッチ(かなりの水準だ)を見たほうが、なまじなタウ

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