「自分が無害と思う表現の規制には反対で,自分が有害と思う表現は規制されてもかまわない」のは「表現の自由を守ること」ではない。「自分が有害と思う表現が規制されることにも反対することで,結果として自分が無害と思う表現も守られる」のが「表現の自由を守ること」だ。 「有害であっても表現を規制すべきではない」という論を立てない限り勝ち目はない。 by 渡邊芳之
振り返ると、今までネットで繰り広げられた「○○反対運動」はパターンがすべて同じと言ってよい。 わずかな可能性を取り上げて、ウソもホントもごちゃまぜにして「危険性」を誇張することで、煽り倒す。その誇張された認識を維持したままの文面のFAX・メールを議員さんに送り倒す。 そこに絡むのがウヨサヨで、ウヨクはサヨクを、サヨクはウヨクを罵倒し、あるいは支持を拡大せんと、ここぞとばかりに祭りに乗る。 で、実際に問題の「法案」が通ってしまうと、それまで語られた「危険性」はきれいさっぱり忘れられて、次のターゲットに喰らいつく。その繰り返し。もうアホかと。 ・・・ 今後の○○反対運動も「○○は危ない!」「言論弾圧に使われる危険性!」などなどと「危険性」を取りざたすることによって煽りが入るに決まっています。 でも、その「危険性」は、現実にはどれくらいの可能性を有するか、また可能性があるとして現実とどういう関係
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く